「こころの不思議、神の領域」 遠藤周作著 を読んで

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心の不思議、神の領域〈読書感想文〉 〈遠藤周作〉作品を読んで
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すべての道はローマに通ずのように、すべては神の領域に向かう。

私自身も知らない間に半世紀以上も生きてしまっていることや、私をこの世に生んでくれた親にも「死」の帳が降りる時期が近いのだと感じる昨今、こういった「こころの不思議、神の領域」といった言葉には自然と感応してしまいます。

遠藤周作氏も「まえがきにかえて」で、ご本人が語っているように、年齢とともにいささか懸命、必死の気持ちで、自分の心の奥にひそむものや、「死」について知ろうと努めるようになったそうです。

その思いがあっての「こころの不思議、神の領域」の対談集だったようです。

曇りガラス

宗教者、精神学者、心理学者、農科学者と幅広い人脈との対談なのですが、遠藤周作氏はそれらすべてが、突き詰めていくと神の領域に繋がるものだと考えているように感じました。

キリスト教、仏教、禅、フロイト、ユング、ニューエイジ、ニューサイエンス、宇宙など、学問になってくると学者言葉が多くなり、正直なところ読みながら私の思考はそっぽを向いていて追求するのを諦めている箇所もあったのですが…目だけはなんとか文章を追っているけれども、脳は麻痺してしまっていて無視しているそのような感じです。

しかし、私はめんどくさがり屋ですから、あまり深追いせず分からない所はそのまま流して読んでいきました。

そうしなければ途中で読書を続けることが出来なくなってしまいますので、少しは理解できたり参考になる部分と出会うチャンスも無くなってしまいます。

そんな感じでたとえ断片しか分からないながらも、どれも興味深い話だったのは確かです。

私も根本はすべて同じ所に辿り着くのではないかと感じているのですが、それは「神」とか「宇宙」とか、人間の思考の範疇を超越した何かなのだろうと思っています。

おそらくですが、こういった知識は何らかの実体験と合致した時に、腑に落ちるものなんだと思います。

人は様々ですから、どれに反応するかは人それぞれですから、いろんな入り口があるのだと思います。

問題になるのは、あるきかっかけが起こり一度確信してしまうと、それこそが正しいものだと思い込み決めつけてしまうことであって、排他的になり本当は補い合うはずのものが対立してしまう、思考の癖にあるのかもしれません。

水鏡

「こころの不思議、神の領域」の中で、特に面白かったところ。

禅僧だった平田精耕氏との会談の中で、遠藤周作氏がある質問をしたのです。

「禅はどんどん自分を自力で鍛えて、最後には悟りみたいなところに行くということですが、そこまで辿り着けないような弱い人間は、どうやって禅では救っていただけるのでしょうか?」と。

平田氏は半分冗談もあったのかもしれませんがこう答えていました。

「それはキリスト教が救ってくれるでしょう」と。

「落ちこぼれ救済ですか(笑)」遠藤氏。

「なかなか落ちこぼれにはなれないよ(笑)」平田氏。

これは禅とキリスト教ではどちらが良いとか悪いとか、どちらが正しいとか間違っているとかといった発想でなく、人それぞれに合った方法があると言っているように感じました。

最後には「すべての道はローマに通ず」のように、すべては「宇宙の秩序」に向かって行くものですねと…

月 道

HanaAkari

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