「能」には観阿弥・世阿弥コードが秘められている⁉「能」はハイブリッド芸能でした。
能面のイメージが強くあり、能は「観阿弥」「世阿弥」が創った日本の伝統芸能という知識から、てっきり完全に日本特有の文化だと思っていたのですが、この書籍を読んでみると全く違った世界が見えてきました。
目から鱗が落ちる内容でした。
世界の文化が「能」の要所要所で見られ、日本の土着のものと上手く融合させている、ハイブリッド芸能だったのです。
それが、中国、朝鮮の文化というのならあまり特別な気はしないものですが、もっと西方のキリスト教の文化も含まれているというのですから驚きました。
「翁」という演目の装束の柄が、なんとバチカンのサン・ピエトロ大聖堂の天井画と同じなんだそうで、いにしえから世界を想像以上に人々が移動していたようなのです。
「能」を一度拝見しましたが、大鼓と小鼓の奏者の鼓の打ち方を見ていると、二人で十字を切っているように見えました。
大鼓は水平方向に鼓を打つのに対し、小鼓は垂直方向に鼓を打っていました。
横と縦の動きから十字架を連想し、音も高音と低温ですから二つ合わさって成り立っているようでした。
また、「能」には目に見える要素以外に、宗教観や思想的なものも融合されているというのですから、芸能文化の大切さを感じました。
古来「能」は時の権力者の経済的な後ろ盾があって成り立っていたようで、表向きはその意向を配慮しつつ、密かに別の要素を組み込んでいたというのが、非常に興味深いです。
例えば、ずっと土着の信仰があったところに仏教が入ってきて、対立や争いが絶えないが、「能」はどちらでもない、同じものだという精神に基づいているのです。
芸能の中に取り込むことで、批判せずにやんわりと主張したり、権力者によって歴史の陰に隠されてしまった裏歴史すらも拾い上げているみたいでした。
「ダ・ヴィンチ・コード」ならぬ、「観阿弥コード」「世阿弥コード」だそうです。
そういった要素を孕ませながら、日本人らしい美学を芸能に仕立て上げた「観阿弥」「世阿弥」とは一体どんな人物だったのかとても気になります。
「能」を見た時に感じた私の感想。
事前に演目について勉強をしていなかったので、古語で謡う日本語はまるで理解できませんでした。
ただ、言葉が理解できなくても楽しめるのが「能」なのかもしれないと思いました。
一見「シテ」と呼ばれる能面を被った演者が主役のような感じですが、もしかしたら「能」には主役という発想が薄いのかもしれないと感じました。
舞台にいる演者全員で一体なのではないでしょうか?
私の想像ですが、多くの人は普段五感の中で視覚を一番使っていると思いますので、舞台で激しく動く演者がいると意識はそこに集中してしまうと思うのです。
そうするとそこだけ目立ってしまいますから、「シテ」はできる限り最低限の静かな動きで多くを表現しているのではないのでしょうか?
能面を被って、表情を見せないのにもそういった役割があるような気がしました。
視覚だけが突出しないように個を消して、会場一体で空間を感じる演出だから、言葉の意味が分からなくても楽しめるのかもしれません。
「摺り足」のことで思い出したこと。
能や狂言では摺り足が基本とのことですが、この動きは日本人に沁みついている所作なのかもしれません。
最近では西洋の人のようにシュッと歩くことがクローズアップされますが、日本人は知らない間に摺り足で歩いている人が多いと聞いたことがあります。
以前、韓国人の友人が教えてくれたのですが、ソウルの繁華街で客引きの仕事をしている人は、歩き方で日本人が分かると言っていました。
韓国人、日本人、中国人は見た目では判断が付かないことがあるけれども、日本人は靴の底を引き摺りながら歩くから、それで日本人だと判断できるそうです。
日本人は靴を履いて歩いても、もしかしたら所作に摺り足の癖が残っているのかもしれません。
HanaAkari