私の座右の書です。これほど目から鱗が落ちて感動した、面白い作品は他に知りません。優しさに包まれます。
「赤毛のアン」は周期的に読み返したくなり、何度も読んでいる私にとっての「座右の書」です。
幼少期の頃から世界の名作をアニメーション化したテレビ番組で知ってはいましたが、興味はなく横目で見るくらいでどのような内容かは全く知りませんでした。
初めて「赤毛のアン」の本をひとしきり読んだのは、二十代半ばのことです。
それから倍以上生きていますが、「赤毛のアン」ほどに、先入観を大きく裏切ってこんなに素晴らしい本があったのか、もっと早く知っておくべきだったと、目から鱗が落ちた作品には出会っていません。
それ程に、初めて読んだ時の衝撃が大きかった作品です。
女性向きなようなイメージがありますが、堅物な男性にこそ読んでもらいたい、そう思います。
私も自分から選んで読んでみることは無かったでしょうが、バックパッカー旅行をしている最中に、知り合った旅行者が読み終わった本を交換し合うのが、日本人旅行者同士では恒例だったので、その時にたまたま「赤絵のアン」が回ってきたのです。
気儘な自由旅では時間はたっぷりありますし、長く外国にいると意識をしていなくても日本のことがどこかで懐かしかったり、日本語が恋しくなっているもので、巡り合った本を選り好みをすることはありませんでしたので、初めて「赤毛のアン」をじっくりと読む機会に恵まれたのでした。
そうでなければ読むことは無かったでしょうから、この本を読むことになったことに奇遇さを感じます。
それ以来、時々読み返してみますが、いつ読んでも感動で心が洗われ、涙します。
年を重ねると涙もろくなると言われますが、確かにそうかもしれません。
「赤毛のアン」には年齢を重ねるほどに、読むほどに新しい発見があり飽きることがなく、近頃再び「赤毛のアン」を読みながら、ぼろぼろと涙を流しました。
奇妙なアンの言動に、人として本当に大切な何かがあるようで、アンの周囲にいるアヴォンリーの人々の愛情、人情が重なり合って理想のハーモニーを醸し出しているようです。
アンは孤児ですが、手違いがあったことでアヴォンリーの「緑の切妻屋根の家」にやってきます。
「緑の切妻屋根の家」には、五十過ぎのマニラとマシュウが兄妹二人だけで暮らしていました。
男の子を引き取るはずが、間違って女の子のアンがやってきたところから物語は始まり、孤児院から自然豊かなアヴォンリーに住むことが出来ることになり、天にも昇る気持ちのアンが、手違いであったことの事実を知り、急転直下、悲しみのどん底に突き落とされてしまいます。
感情の起伏が激しいアンの悲しみは、人並み以上のものがあったろうと思うと想像するこちらも、胸が詰まります。
ただアンが悲しみの淵に彷徨う前には、彼女の魅力を存分に発揮して、マシュウの心を捉えていました。
現実主義のマニラも心の奥底に起こった愛の揺さぶりによって、その時には違和感を感じていたはずですが、それまでの習慣からアンは送り返さないといけないという結論になるのは、ごく当たり前のことだと思いました。
農作業の助けが必要だったマニラとマシュウには男の子が欲しかったのですが、人の縁と運命というものは時に常識を覆してしまうこともあって、そこには不思議と何か大切なものがあるのだと思います。
マシュウは極端な人見知りだったにも拘らず、奇跡の間違いが起こって駅から家に馬車で向かう間に、アンに魅了されてしまっていたので、マニラのアンを送り返すという真っ当な意見に対して、自分の意見を述べるのですが、その時マシュウは何かに気が付いていたのでしょう。
それは頭で考えて分かるものではなく、心の声に従ったのかもしれません。
「わしは思うに……わしらには、あの子を、置いとけまいな」 「置いとけませんね。あの子がわたしらに、何の役にたつというんです?」 「わしらのほうであの子になにか役にたつかもしれんよ」 突然マシュウは思いがけないことを言い出した。
ここから奇跡の展開が始まっていきます。
本当は奇跡でも何でもなく、起こるべきことだったのだと思います。
アンの成長と共に周囲に広がっていく愛によって、マシュウもマニラも変わってゆきます。
素直に愛情を表現できなかったマニラも、アンに対して愛娘として深い愛情を表現できるようになりますし、マシュウがある日、つぶやいた言葉が真実でしょう。
「…あの子はりこうできれいだし、何よりいいことに愛情がある。あの子はわしらにとっては祝福だ。まったくあのスペンサーの奥さんはありがたいまちがいをしてくれたものさ……運がよかったんだな。いや、そんなものじゃない、神様の思し召しだ。あの子がわしらに入用だってことを神様はごらんになったからだと思うよ」
アンは想像力豊かな、とても可笑しい赤毛にコンプレックスを持った、魅力的な女の子です。
アンの魅力は素直さと愛情が底なしのところだと思うのですが、それと共に子供の頃の彼女の愛らしさは想像力が豊かで、ずば抜けていることです。
村の人にはただの林檎の木の並木道が、白い花が満開の頃に初めてそこを通ったアンにとっては「歓喜の白路」となり、ただの池は「輝く湖水」になるのですが、アンの面白さはそんなものでは終わりません。
自分のことをコーデリアと呼んで欲しいと言ったり、アンの発音には「Anne」と「Ann」の後に「e」を入れて呼んで欲しいと言ったり。
「その人が正しい行いをするかぎり、名前などどうでもかまわないことです」とマニラの言うこともその通りなのですが、それに対してアンの言った言葉が最高でした。
「いつか本に、ばらはたとえほかのどんな名前でも同じように匂うと書いてあったけれど、あたしどうしても信じられないの。もしばらが、あざみとかキャベツなんて名前だったら、あんなに素敵だとは思われないわ。」
こちらも納得です。
紆余曲折の末、アンは送り返されることはなく、マニラとマシュウと共に暮らすことになるのですが、マニラがアンに対して、ここに置いておくことを決めたことを本人に伝えた後のアンの言動は、アンの素晴らしさを物語っていました。
「あたし、泣いているんです」アンはきまりわるそうだった。「どうして涙が出るかわからないの。うれしくてたまらないのに泣けるんです……」
そして、マニラとマシュウに引き取られたアンの数々のすったもんだ、活躍、恋に読者である私は魅了されるがまま、笑いと涙と感動に酔いしれるのです。
アンの仰々しい言葉使いの翻訳が非常に合っているようで、村岡花子氏訳の少し古風な日本語も、この物語をさらに盛り上げているように思います。
私がいつも読む「赤毛のアン」は村岡花子氏の翻訳のものですが、他の翻訳と比較したことはありませんが、いつもこの翻訳の絶妙さに感心します。
今ではあまり使わないような言い回しの日本語が、アンにぴったりとはまっているようで、少し古風ともとれる日本語によって、アンの世界の魅力がより増しているようです。
そこが面白さの一つなのだと感じています。
例えば今では一般的に「ハンカチ」と表現しますが、この物語の中では「ハンケチ」です。
古い言い方という以上の魅力が「ハンケチ」一つからも、滲み出ているようです。
アン風に言えば、「まあ、ハンカチなんて呼び方は素敵じゃないわ。だってありふれているのですもの。私だったらハンケチと呼ぶ方が好きだわ。響きが素敵じゃない。ハンカチもハンケチと呼ばれた方がきっと喜ぶに違いないわ」みたいな感じになることでしょう。
私はハンケチを持ってきて涙をぬぐわないと、この物語の佳境に訪れる大きな悲しみの部分では、涙で文字が歪んで読書することができなくなりました。
物語の最後には涙が止まりません。読むたびに涙の量が増えていきます。
一度その悲しみの冷たい、神聖な手にさらされると、人生は二度ともととおなじにならないのである。
「わしの娘じゃないか、わしの自慢の娘じゃないか」マシュウの声がいつまでも聞こえてきます。
そしてアンの決断と、これからに向かって前を向くアンの決心が希望と共に始まります。
この物語はユーモアと共に、いつも人として大切なものを思い出させてくれ、教えてくれます。
私がこの本と出合えたことは、マシュウ風に言えば「神様の思し召し」だったのかもしれません。
HanaAkari