- ダンブッラ〈Dambulla〉
〈シーギリヤ〉観光も終え、〈キャンディ〉に戻りました。 - キャンディ〈Kandy〉
〈キャンディ〉は非常に居心地が良い落ち着く場所だったので、インドへのフライト予約がある日から逆算して、なるべくここで過ごしてから〈コロンボ〉に行くことにしました。 - コロンボ〈Colombo〉
インド〈チェンナイ〉へのフライトの少し前に戻ってきました。スリランカを旅行中に気になったことがあったので、日本大使館で聞いてみようと思い尋ねてみました。
- スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ〈Sri Jayawardenepura Kotte〉
スリランカの首都。首都移転計画によって1985年に〈コロンボ〉から遷都されました。再開発された新しい町でしが、町に人の活気はありませんでした。行政地区としてインフラ整備はされていても、人の動きが追い付いていないような印象でした。〈コロンボ〉から10キロ程離れた所ですから、日帰りで行きました。
このブログは私がバックパッカーとして、1997年9月20日出国~1999年11月16日に帰国するまでの間に訪れた場所を、四半世紀後の私が思い返してみたら、一体何が出てくるのだろうか?という好奇心から古い記憶を辿り、出てきたものを書いてみることを試みたものです。
【コロンボ②】日本大使館もドン引き|旅の玉手箱 スリランカ編-9
【コロンボ②】
元々はインドのビザを取得することが目的だったスリランカの旅でしたが、実に思い出深い経験をたくさんさせてもらい、素敵なスリランカの人々の心に触れることが出来たことは、本当に幸せだったと思います。
そんなスリランカの旅も、一ヶ月の観光ビザの有効期間が残り僅かに迫り、インドへ戻る日が近づいていました。
〈コロンボ〉は二度目の訪問でしたので、特にやりたいことも無かったので、スリランカ滞在中に非常に気になったことに対して確認だけしておこうと思いました。
旅行中、スリランカ人から「日本は良い国だ、素晴らしい」「日本へ行って働きたい」「どうすれば行けるのか?」「あなた、何とかできないものですか?」と、頻繁に尋ねられました。
今のように技能実習生の仕組みもあまり知られてなくて、あの頃は感覚でですが、日本で働くためのビザを取得するのは簡単ではないだろうなと察してはいましたが、あまりに聞かれることが多かったので、実際にはどのような形で可能になるのかを知っておきたいと思ったので、日本大使館に行って聞いてみることにしたのです。
閑静な住宅街の中にあった日本大使館でしたが、内戦状態にあったスリランカのこと、門は厳重に閉ざされており、建物の中には一歩たりとも入ることが出来ませんでした。
インターフォン越しに、ぶらりとやってきた汚らしい者が、「スリランカ人はどうやったら日本で働くことが出来るのか?」などと唐突に質問した訳ですから、大使館の方の対応が怪訝そうで非常に事務的だったのも仕方ないことだと今では思います。
ただ、「当時はなんて態度が悪いんだ」「ミャンマーの日本大使館を見習え」と、ミャンマーで日本大使館にお世話になった(残り少なくなっていたパスポートのページを増刷してもらいました)時は、親切だったことを思い出し、筋違いですが腹を立てたものでした。
我ながらお恥ずかしいことばかりですが、もしかしたら何かの役に立てるのではないかと、身分不相応なことを考えてのことで、現実にフーテンのバックパッカー風情がどうにかできるようなことでもないのを知るだけでした。
実は初めからどうにもできないことは分かっていたので、きっぱりと割り切るためにの、自分を納得させるものが欲しかったのだと思います。
それ程にスリランカでは、日本人だというだけで色々と良くして頂いたのです。
後日談ですが、それから数年後に〈ハンバントタ〉で知り合った男性が、実際に日本に出稼ぎにやってきて、突然連絡があったので非常に驚くことになりました。
どうやったか分かりませんが、実際に日本に出稼ぎに来て家族の為に頑張る姿勢は称賛に価しました。
が、少し心配になったのが、「今やっている仕事はしんどいし辛いから、何かいい仕事はないですか?」なんて言うものですから、「仕事があるだけでも幸いだから、目的成就の為に頑張るしかないよ」と言ったのですが、伝わったかどうか?
彼には日本人は簡単にお金をいっぱい稼いで、リッチだという幻想もあったのかもしれません。
為替相場の違いでおかしな現象が起こり、日本ではフーテンの私でもアジアの国々ではお金を持っている人になってしまい、そのお陰で旅が出来たのは事実です。
しかし、その資金は何もせず左うちわで稼いだものではなく、旅に出る前に所有していた車も売って資金の一部にしたのものですから、恵まれていたのは事実ですが、そういった内情は流石に日本にやってきたばかりのスリランカの人には理解出来なかったのでしょう。
隣の芝は青く見えるんだと思います。
私にはスリランカの人々の暮らしぶりが羨ましかったのですが、知らぬが仏で上澄みだけ見えていたのでしょうね、お互いにおめでたいものです。
【人は憎しみによっては憎しみを越えられない。人は愛によってのみ憎しみを越えられる。 Hatred ceases not by hatred but by love】
私がスリランカに行った動機はインドの観光ビザを取得する為でした。
だたそれがスリランカという国のことを知るきっかけになり、スリランカの人々は非常に親日だということを肌で感じることとなりました。
スリランカに行けたことは、本当に私にとってはありがたいことでした。
【人は憎しみによっては憎しみを越えられない。人は愛によってのみ憎しみを越えられる。 Hatred ceases not by hatred but by love】
この言葉を初めて知ったのはスリランカを旅行する際に携帯していた、ガイドブックの「地球の歩き方 スリランカ」からでした。
旅行のガイドブックですが、ガイド関係以外にも小話やちょっとしたエピソードが面白いので本を読む感覚で楽しめたのですが、その中に「人は憎しみによっては憎しみを越えられない。人は愛によってのみ憎しみを越えられる」この記事を読んだ時には自然と目に涙が滲んできて、なぜ今まで知らなかったのだろう、スリランカに来てこの事を知ることができたことは本当に幸いだなぁ、そのように感じたことが今でも記憶に残っています。
まさか旅行のガイドブックで泣くとは思いませんでした。
太平洋戦争の敗戦後、日本の今後についてどのようにするのか?が話し合われた「サンフランシスコ講和会議」の席で、セイロン(スリランカ)代表のジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ氏(後のスリランカ2代目大統領)の演説が日本の未来を救ってくれたという歴史を知りました。
もし彼のこの演説が無ければ日本は戦勝国側である米国、英国、中国、ソ連の四大国によって、本州、北海道、九州、四国と四つに分割統治されていたかもしれないというのです。
演説では戦争でセイロンが受けた損害に対して、セイロンは損害賠償を望まないと発言した後に、仏陀の教えである「人は憎しみによっては憎しみを越えられない。人は愛によってのみ憎しみを越えられる」この言葉へと続きます。
演説の後は万雷の拍手が鳴り止まなかったそうです。
そのような歴史的背景があり、日本はスリランカに対して出来る限りの経済援助を行ったのもあり、私は何もしていませんが日本の先人たちのお陰で、おもてなしを受けたように感じることになった程です。
改めて「サンフランシスコ講和会議」でジャヤワルダナ氏の発言の内容を噛みしめてみると、かつての日本人が毅然として精一杯生きていたのも分かりました。
HanaAkari