このブログは私がバックパッカーとして、1997年9月20日出国~1999年11月16日に帰国するまでの間に訪れた場所を、四半世紀後の私が思い返してみたら、一体何が出てくるのだろうか?という好奇心から古い記憶を辿り、出てきたものを書いてみることを試みたものです。
【マナリー~レー峠越え】|旅の玉手箱 インド・ラダック編-1
【マナリ~レー大峠越え】
リトルチベット〈ラダック〉を目指して、〈マナリー〉からローカルバスに乗り込みました。
一泊二日の行程でした。
当時のバスはたとえ長距離バスであっても、無骨なオンボロで、時折黒い排気ガスをボわボわ吐き出して走るバスでした。
座席は非常に固く、背もたれは直角、足元の空間は狭いという、苦になる三拍子が揃った素敵なバスでした。
悪路をガんガん飛び跳ねながら、ギアチエンジの際には大きな音と共に大きな振動が起こり、「大丈夫か?」と心配になるほどでしたが、そんなバスで独特の風景の中を疾走できたことは、今思い出してみても感動する経験でした。
富士山よりも標高が高い場所を走っているという不思議な感覚、乾燥した高山の荒れ地のような殺伐とした景色、どこまでも広がる青い空、強い日差し、時折見かけた遊牧民とヤギの群れなど、どれをとっても初めて見るものでした。
一日目は〈キーロン〉という集落まで進み、簡単な宿泊施設で一泊し、次の日には標高4000メートル~5000メートル級の峠をいくつも越えて〈レー〉に向かいました。
広大な景色はどこまでも単調でしたが、飽きることはなく最高でした。
しかし、狭いバスに激しく長時間揺られ続けますので疲労は蓄積し、高山病の兆候だと思われる頭痛が起こりましたので、絶景とは裏腹に過酷な移動だったのだと思います。
ただ私はその道を往復で4回通りましたが、過酷だった記憶はあまり残っておらず、素晴らしかった情景だけが強く印象に残っていますので、過酷<感動だったのだと思います。
チベタン(チベット人)の行商の方も乗り合わせていました。
夏期になってこの峠道が開通すると、ラダック人、旅行者以外にチベット人の方が出稼ぎに〈レー〉に向かうようでした。
ちょうど私の乗ったバスに、見た目は初老のチベット人のご夫婦が乗っていました。
このご夫婦とはこのバス移動の際は軽く挨拶を交わした程度でしたが、〈レー〉にしばらく滞在するうちに仲良くなり、私は二度目の夏に再び一人で〈レー〉に訪れた際に再会した時には、非常にお世話になったので、人の縁というものは本当に不思議だと思います。
たまたまインドの山奥の秘境のような場所に向かうバスに乗り合わせたところで知り合ってから、私にとってはチベット人の母と父のように思えるような感覚にまでなったのですから…
チベットから亡命して来た時に持って来た、天然石やそのようなもので作ったチベットアクセサリー等の小物を、外国人観光客が多くやってくる夏期の〈レー〉で売って生計を立てているようで、チベットから逃れてきたインドの地で、逞しく笑顔で生きている姿には尊敬しました。
峠越えの道は途中から大河「インダス川」と並走するようになりました。
ラダック地方は雨があまり降らないので、標高が高いことと、乾燥しきっていることから独特の景観を成しているようですが、草木はほとんどなく、所々に小さなブッシュを見るだけでした。
アルプスの少女ハイジの山の景色から、緑を無くした世界といった感じです。
天空の道は途中から川と並走したり、川の流れが見えることが多くなり、どうやら同じ方向へ向かっているようでした。
「インダス川」でした。
当時は「インダス川」だという認識はなかったですが、それを知ってからは一層あの場所へ行けたことを嬉しく思います。
バスは途中、小休止で「インダス川」沿いの石だらけの河原に泊まりました。
トイレタイムです。
男性は問題ないと思いますが、女性は物陰が少ないので苦労するかもしれませんが、チベタンマザーは楽勝で用を足していました。
というのもチベタンの民俗衣装がスカートのようになっていて、腰を屈めるとスカートがテントになって用を足す際も中は人目には触れませんので、完全な物陰でなくても平気でこなすことが出来るのでした。
じっと観察していた訳ではなく、チベタンマザーが見えるところで済ませていただけですが、一応付け加えておきます。
そして「インダス川」の水は非常に澄んでいて綺麗で、とても冷たかったです。
チベット奥地の氷河から融け出し、大河になる前の子供のような所なので純粋なんでしょう。
HanaAkari