「緑は青」 「青虫は緑」
信号が「青」に変わりました。
このブログは言葉から連想したことを自由に書いています。時に勇気や喜びをもらえたり、慰められたり、癒されたり、言葉には力があるように思います。そんな素敵さや楽しさを少しでも表現できたら幸いです。
【青 蒼 碧】萌える緑はあお。緑色なのに青信号|言葉の小槌9
【青 蒼 碧】 【あお あお あお】
初夏の晴天の日に。
久しぶりに自転車でいつも行動している範囲から少し遠出をしてみると、いつもと違う景色がいくつか違う視点から見えました。
いつもの生活範囲以外に行くわけですから景観は違っていて当然なのですが、「どこそこに新しいお店ができた」とかではなく、どちらかといえば「こんな所にこんなお店があったのか」といったちょっとした発見のような感じです。
街に住んでいますので、普段よく目にする色はコンクリートの灰色とアスファルトの黒なのかもしれません。
ぼうっと信号待ちをしていて、ハットとしました。
街路樹の緑が目の奥にまで飛び込んできて、圧巻のみどり色に目を奪われてしまいました。
「新緑の萌える碧」がこれほどまでに緑と感じたことはこれまでなかったですし、これほどまでに碧(みどり)が生命力に満ち溢れて輝く様は、まるで街路樹から「碧」の光線が放射状にほとばしっていているようでした。
「みどり」と「あお」の表現の境があいまいというか、感覚的で日本語は面白いなあと感じるところで、青虫は緑色ですが青虫と呼びますし、「青葉」「青菜」「青野菜」など、植物に関係する「緑」は「青」と表現されることが多いのはなぜなのでしょうか?
「隣の芝は青く見える」という諺は「他人のものはよく見える」といった意味合いで、人間の心理を表した、とても的を得た例えだと思いますが、原文の〈The grass is always greener on the other side of the fence〉と横文字のアルファベットにしますと、何かより格好よく思えてしまうあたりはまさに「隣の芝は青く見える」ということになりますね。
一方、「あをによし」なんて古語からは感覚として奥ゆかしく、味わい深い情緒のようなものを感じます。
よく知らないのですが。
「碧」の先の建物の向こうには、蒼天が広がっていました。
街では空は狭くて、意識しない限りあまり見ることはないのですが、きっと空が狭いとか足元を注意しないと危ないとかいうはただの言い訳で、自分に余裕がなくて近くしか見れていないんだろうと思います。
一歩さがって自分の行動を考察してみると、その多くはいかにうつむき加減の視線で行動しているのかが分かります。
これをしないといけない、次はあれをしないといけない、次から次へと考えては行動していると景色はただ映っているでけで、無いに等しいものにしてしまっているのだろうと思うと、もったいなく感じました。
時間は限られているのでとても大切ですが、ただそれに流されるだけにならないように、時には空を見上げることの余裕も忘れずにいたいですし、同じように身近にある植物の輝きを見落とさない私でありたいと思いました。
時には「赤信号」で立ち止まることも大切なことでした。
信号が「青」に変わりました。
HanaAkari
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