「大師のみ足のもとに」 J・クリシュナムルティ著 を読んで

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大師のみ足 のもとに 〈外国人〉作品を読んで
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〈J・クリシュナムルティ〉の入門書のつもりで読んでみたのがきっかけでしたが、入門書ではなく奥義書のように感じるのは今でも同じですが、時々読んでみたくなる好きな書です。

この「大師のみ足のもとに」という本は、故〈ジッドゥ・クリシュナムルティ〉というインドの現代的な賢者が、13歳の時に初めて綴った本です。

短い文量ですので何度か読んでみましたが、私の精神性では到底及びも付かない境地のようで、単純なのに難解に感じてしまいます。

私が〈J・クリシュナムルティ〉を知ったのは、インド旅行中にガンジス川の沐浴風景で有名な〈バラナシ〉というヒンドゥー教の聖地でのことでした。

そこで日本でお坊さんをしているMさんと知り合いました。

そのMさんは独特の魅力のある方で、たまたま宿が同じだったことから仲良くなったのです。

〈バラナシ〉にいる時には、よく一緒に楽しんだものですが、日本に戻ってから一度お寺を訪ねたこともあります。

バラナシ
バラナシ

そのさんは日本に帰ると課題のレポートを提出しないといけないということで、そのための読書本として〈J・クリシュナムルティ〉の本を持参していました。

その時に〈J・クリシュナムルティ〉という人を初めて知りましたが、その時は「クリシュナムルティは難しいから今は読む必要ないよ」とMさんに言われたことが強く記憶に残っただけでした。

当時の私は精神性にはほとんど興味はなく、今から思えばあの頃から少しづつ精神世界に興味が出てくる兆候が薄っすらとあった時期だったのだと思います。

Mさんが言った「旅するのは何かを探しているからで、迷っているんだね」という言葉の通り、当時は意識すらせず、ただ楽しむこと逃げることのみの旅行者の私でしたが、実は心の奥底では何かを探していたのかもしれません。

そんな私が日本での生活に戻った時に、〈クリシュナムルティ〉の本を読んでみようと思い、〈クリシュナムルティ〉が13歳の時に初めて書いた「大師のみ足のもとに」が入門書としては最適だろうと考えたのでした。

しかし、にわかに精神性に目覚めたつもりでのぼせ上って背伸びをしていた私には、まさに豚に真珠という言葉がぴったり当てはまる結果となりました。

あれから20年以上経過するのですが、時々読み返してみることはあります。

今の私が気になった部分を抜粋できればと思います。

J・クリシュナムルティ

「大師のみ足のもとに」は〈J・クリシュナムルティ〉が、13歳の時に賢者〈クートフーミ大師〉から教えられたことが綴られています。

〈J・クリシュナムルティ〉が〈クートフーミ大師〉から教わった、道に入る四つの条件、「識別」「無欲」「善行」「愛」について書かれています。

一、「識別」より

全世界にはわずか二種類の人々しかいません。知っている人々と知らない人々です。この知識は重要なことです。ある人がどのような宗教を信じ、どの様な人種に属しているかということ等は大切なことではありません。本当に大切なことは、神の人間に対する御計画についての知識です。神は計画を持っておられます。その計画は進化ということです。

神の側にある人々は我々の一員です。その人が自分はヒンズー教徒ですとか、仏教徒、キリスト教徒や回教徒ですと言おうと、またインド人やイギリス人、中国人やロシア人であろうと、そのような事は全然問題ではありません。神の側にいる人達は、自分はなぜこの世にいるのか、また何をすべきかを知っています。やるべきことを行おうとしています。一方、神の側に居ない人々は皆、何をすべきかをまだ知っていないので、よく馬鹿げたことをします。そしてすべてのものは一つであるということ、だから一なる神がお望みになることだけが、どんな時にもすべての者にとって本当に楽しいのだということを理解せずに、自分の楽しいと思える方法を考え出そうとします。

「大師の大師のみ足のもとに」〈J・クリシュナムルティ〉 一、「識別」より

ニ、「無欲」より

無欲という条件は人々にとって、難しいものです。人々は自分の欲望を自分そのものだと思い、欲望や好き嫌いがなくなった時は「自分」はもうなくなっていると思うからです。

人の事におせっかいをしたいと思うことを、あなたはしっかりと抑えなければなりません。人が何を行い、何と言い、何を信じているかは、あなたの知ったことではありません。その人になすままにしておくようにならねばいけません。他人を害しない限り、人間は自由を考え、話、行う完全な権利を持っています。あなた自身も自分が正しいと思っている事を行う自由を主張していますね。同じ自由を他の人にも認めなさい。他の人がその自由を行使している時に、彼のことをとやかく言う権利はあなたにはありません。

「大師の大師のみ足のもとに」〈J・クリシュナムルティ〉 二、「無欲」より
光

三、「善行」より

あなたの心(マインド)を、高慢にしなさるな。高慢は無知の生み出したものに過ぎません。”知らない人は”自分は偉いとか、様々な大きな事をして来た等と考えます。しかし、賢者は、神だけが偉大であり、善い仕事はすべて神によってなされる事を知っています。

人類の役に立つ為には、思いは行動とならねばならぬということを覚えていなさい。

あなたはすべてのものに、寛容でなければなりません。…この様な完全な寛容さを得るには、まず頑迷と迷信から自由にならねばなりません。

あなたは高度な仕事にとりかかろうとするからには、日常の仕事も忘れてはなりません。それが出来上がらない内は、他の奉仕をする自由はあなたには無いからです。

「大師の大師のみ足のもとに」〈J・クリシュナムルティ〉 三、「善行」より

四、「愛」より

すべての条件の中でも愛が一番大切です。人の内に愛が大層強い時には、愛はその他の条件を皆習得させて呉れます。

故意の残酷とは、わざと他の生きものに苦痛を与える事で、すべての罪の中でも一番の大罪です。人のやる事というよりむしろ悪魔のやる事です。

迷信はもう一つ別の大きな悪です。

迷信と云う悪魔に動かされて、愛の神の名に於いて多くの罪が犯されてきました。

「大師の大師のみ足のもとに」〈J・クリシュナムルティ〉 四、「愛」より

「クートフーミ大師」とは、インドの仙人のような方のようです。

幼少の頃から非凡な霊的な才能があった、〈J・クリシュナムルティ〉が神智学協会の幹部にその才能を見出され、13歳の時に偉大なる魂(マハトマ)のマスターである、〈クートフーミ〉から指導を受けたようですが、ヒマラヤの山中にいる〈クートフーミ〉とは霊的な交信によって、指導を受けたということです。

凡人の私には超常現象のようにも思えるところはありますが、昔はインドのヨガマスターやチベットの高僧などには、そのような事は不思議な現象ではなく、普通の出来事のように可能だったということです。

俗な見方をすると、実在したのか?今でも健在なのか?崇高な魂の存在なのか?すら分からない謎の人物ですが、そういったところはあまり重要ではないのかもしれません。

ワームホール

〈ジッドゥ・クリシュナムルティ〉について、私が好きなところ。

〈J・クリシュナムルティ〉の本を何冊か読んでみたことがありますが、私には少々難解なところが多く、間違いなく私の実力不足は否めません。

ただ、私が〈J・クリシュナムルティ〉の本を読んで、面白くて魅力的な方だととても印象に残っていることがあります。

「私は何も信じない」という対談集でしたが、その中で〈J・クリシュナムルティ〉は、現存するすべての宗教や哲学などの本は一切読まず、歴史的に伝えられてきていることも一切信じていないですし、私が読書を楽しむのは推理小説だけですと書かれていたことです。

面白い人だなと好感を持ちました。

すべての宗教や教義などは囚われになり、鵜呑みにすることなく、自分自身で考えて歩みなさいということのように解釈しましたが、そこまでの極論的な手段が可能なのは〈J・クリシュナムルティ〉が突出した人物だったからのようにも思います。

「大師のみ足のもとに」の中にこのようにありました。

あなたの目は開かれたので、昔の信仰、昔の儀式はばからしいと思えるかもしれません。たぶん、いや、実際、それはばかばかしいものです。あなたはもう、それに関係する事はありえませんが、それが未だ大切な、善良な人々の為に尊重なさい。古い信仰、儀式はその職分と役目を持っているのです。それは丁度、あなたが子供の頃、真直ぐに綺麗に字を書くしるべとなってくれた二本の線のようなものです。後にはもう、その線が無くてもあなたはもっと上手に字が書ける様になりました。あなたにもその線が必要だった時があったのです。けれども今はそうではなくなりました。

「大師の大師のみ足のもとに」〈J・クリシュナムルティ〉 三、「善行」/ 3.「寛容」より

13歳にして〈J・クリシュナムルティ〉はこのようなことを理解できる人物だったことに驚愕します。

HanaAkari

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