旅の玉手箱【大阪-南港】〈出発編〉

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旅の玉手箱 出発編 旅の玉手箱 〈出発編〉
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出発までの心の流れ
  • 葛藤
    日本での生活に閉塞感があり、悶々と過ごす日々。
  • 渡りに船
    友人からバックパック旅行の誘いがある。
  • 青天の霹靂
    出発日にまさかの事態が起こる。
  • 清水の舞台から飛び降りる
    悩み抜いた末、二日遅れで出発する。

このブログは私がバックパッカーとして、1997年9月20日出国~1999年11月16日に帰国するまでの間に訪れた場所を、四半世紀後の私が思い返してみたら、一体何が出てくるのだろうか?という好奇心から古い記憶を辿り、出てきたものを書いてみることを試みたものです。

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【大阪-南港】国際フェリーターミナルから出航|旅の玉手箱 出発編

【大阪-南港】

1997年9月20日に大阪南港にある「大阪国際フェリーターミナル」から船に乗り上海に向けて日本を出た時には、まさか約二年二カ月の間、アジアの国々を放浪することになるとは微塵も考えていませんでした。

なんとなく長くても半年もしないうちに、帰ってくるだろうと思っていました。

当時私は、特に目的を持って生活をしていなかったですし、バックパッカーというスタイルで海外旅行をするといった発想もなかったです。

海外旅行といえばパッケージツアーで行くことしか知りませんでしたが、海外旅行は好きでしたし、興味があったので、それまでにアメリカに三度(ロスアンゼルス、ラスベガス、ハワイ)、韓国に一度、香港、マカオに一度とパッケージツアーで行ったことはありました。

ハワイにはホノルルマラソンを走りに行きました。

ただ日本での生活に閉塞感があり、当時は自分の内側に目を向けることはせず、外側に「何かいいこと」があるのではないかといった思いが強かったので、外国に行くことで逃避しようとしていたのだと思います。

それで漠然と留学か、ワーキングホリデーを利用して長期間、英語圏の国へ行って海外生活をしてみようかと考えていました。

逃避から出た発想ですので、特にはっきりとしたビジョンはなく、ただ少しずつお金は貯めてはいました。

ただ悶々とした「葛藤」はずっとありました。

南港大橋
南港大橋

ちょうどその頃、友人の一人がバックパックの旅をスタートさせたのです。

まず友人は中国そしてモンゴルへ行ったのですが、時折、絵葉書を送ってくれたのですが、とても楽しそうなので、羨ましくて私も早く十分なお金を貯めて留学しようと思ったのと、若干の嫉妬がありました。

数カ月経過した頃、その友人が私をバックパックの旅行に誘ってきたのです。

バックパッカーをしていると外国の旅行者とも知り合うことが多いので、絶対に英語の勉強にもなるし、何より得られる経験は他に替え難いものがあるので、是非知って欲しいと強く勧められました。

留学するにはまだ資金不足でしたし、早く海外に行きたいという気持ちが強かった私は、「渡りに船」だとばかりにその話に乗ったのです。

当時はインターネットがなかったので、詳細なやりとりはできなかったと思うので、たぶん手紙と短い電話のやりとりだけで、とりあえず必要な準備に超特急で動きました。

手紙は大きな都市の中央郵便局(General post office → GPO)留めというやり方で、行き先の予定地のGPO宛てに手紙を送り、友人はそのGPOに保管されている手紙を自分で取りに行くという方法で、国際電話はお金が掛かったので、手短にそれと向こうは移動しているので、こちらからは電話することは出来なかったのに、今考えると一体どうやったんだろうと思います。

スマホでちゃちゃッとという風にはいかないので、不思議ですが無ければ無いでなんとかなったんですね。

中国雲南省の昆明(Kunming)で合流し、友人の中国滞在のビザが失効する前に、そのまますぐにベトナムに行くという手筈に基づいて準備を急ぎました。

仕事や身の回りの整理、上海までの船の予約、上海から昆明までの飛行機の予約、それこそバックパックを買いに行くところからの旅の準備、米ドルのトラベラーズチエックを用意したり、中でもベトナムのビザの取得は意味が良く分からず、大阪のベトナム領事館に直接行って取得したのですが、当時ベトナムビザを取得するにはベトナムへの入国地点と出国地点を決めて申請する必要があったのですが、飛行機で行くなら分かりやすいのですが、中国から陸路でベトナムに入るため、入国地点を調べるのに手こずりました。

なんとかなりましたが出国地点が分からなかったので、ホーチミンの空港から出国することにして取得したので、後にベトナム国内で出国地点の変更することになるのですが、これがとても大変でした。

今ではスマホで何でもググったらすぐに分かるのが当たり前になりましたが、当時を思い起こしてみますと夢のようです。

準備は進み、後は中国の昆明で友人に合流さえ出来れば、しばらくはバックパッカー先駆者である友人に頼って万事オーケーという段階になり、出発日を楽しみにしていました。

ら。

まさに「青天の霹靂」。

出発日に台風がやってきて、私の乗る船は運休、出発は二日後になるという事態になってしまったのです。

船は二日後に出ますが、それによって上海→昆明の飛行機の予約の変更をしないといけないので、チケットを購入した旅行代理店に尋ねると、中国国内線の予約変更は日本からはできないので、現地でやって下さいと言われる始末、それが出来ないから日本で全て手配していたのが一瞬で崩れ去り、仮に二日遅れで出発したとしても、友人とは連絡が取ることができないので、合流することが出来ない危険性があることを考えると事態の深刻さは増すばかりで、不安で不安で仕方ありませんでした。

何度も行くのを止めようかと本気で考えましたが、その場合でも友人と連絡が取れないことが問題ですし、行ったとしても中国語は当然分からない、英語も全く話せなかったので、もし友人と合流できなかったら、それこそ生死を分けるくらいに路頭に迷ってしまう事にも為り兼ねないと考えると、恐怖しかなかったです。

しかし悩み抜いた末、私は「清水の舞台」から飛び降りたのです。

出港
出航

出発日は地元の友人に大阪南港にある国際フェリーターミナルまで、車で送ってもらったのですが、国際フェリーターミナル近くまで来た時に道路が少し登り坂になっていて、その先が左にカーブになっている所があり、一時先が見通せなくなる場所がありました。

そこに差し掛かった時には曇り空と相まって、また大きな恐怖が襲ってきて出発を目前にしているにも関わらず、「やっぱり引き返そうか」とも考えました。

今でもその坂道を見る機会があると、あの時のことを鮮明に思い出します。

ですが私は恐怖と共に、フェリー新鑑真(しんがんじん)号で上海に向けて出発したのです。

HanaAkari

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