旅の玉手箱【ヤンゴン】〈ミャンマー編-1〉

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旅の玉手箱 〈ミャンマー編〉 旅の玉手箱〈ミャンマー編〉
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ミャンマー国内での動き
  • ヤンゴン
    〈Yangon〉
    タイの〈バンコク〉から飛行機ですぐでした。ミャンマーの人々はおおらかで穏やかな人々が多く、過ごしやすかったです。ただ当時は軍事政権で、おかしなことがあるものだという違和感はありました。そして一度民主化が果たされましたが、軍事政権によるクーデターが2021年2月に起こり、目に余る行為を報道で見にします。どこに向かって行こうというのでしょうか?一部の人間が国のことよりも個人の利益だけで動いているような気がしてなりません。
  • インレー湖
    〈Inle Lake〉

    少数民族が湖上に住居を作り独特の生活を送っていました。非常に興味をそそられた水上住宅がありました。

  • マンダレー
    〈Mandalay〉

    〈ヤンゴン〉に次ぐ大きな町であり、古都としての面影もありました。お坊さんを多く見かけました。

このブログは私がバックパッカーとして、1997年9月20日出国~1999年11月16日に帰国するまでの間に訪れた場所を、四半世紀後の私が思い返してみたら、一体何が出てくるのだろうか?という好奇心から古い記憶を辿り、出てきたものを書いてみることを試みたものです。

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【ヤンゴン】民衆と軍事政権とのギャップを強く感じました。|旅の玉手箱 ミャンマー編-1

【ヤンゴン

ミャンマーという国は果たしてどのような国なのか?予備知識がほとんどないまま、タイのバンコクからビーマンバングラデシュ航空で、ミャンマー・ヤンゴン経由のバングラデシュ・ダッカ行きの飛行機を利用しトランジットしました。

私のような世代にはミャンマーという国名に馴染みは薄く、ビルマという国名の方が聞き覚えがあり、タイと同じような小乗仏教の国だという漠然としたイメージだけがありました。

ヤンゴン

また当時の軍事政権下では、外国人はミャンマー入国の際には、強制的に両替をさせられるFEC(外貨兌換券)という制度があり、現地の実際の相場とはかなり掛け離れた貨幣価値で300us$を強制的に両替しないといけませんでした。

現在、FECを行っている国は無くなりましたが、以前は社会主義の国々で行われていた制度です。

バックパッカーの間ではその強制両替のようなあくどいやり方に対して、どうにかにかしてすり抜けようとする為の情報交換や作戦会議が行われました。

FECで両替した通貨はミャンマー国内でも信用が低く、ましてや外国で使えるはずはありませんので、ただの紙屑に近いものでした。

当時のミャンマーの物価では、バックパッカー旅行のようなスタイルで300us$を使いきるには、結構無理やりお金を使う必要があって、余ればただの紙屑になるものと、どこでも安定して使えたUSドルとを強制交換させられるのは、非常に納得し難いものでした。

なのでバックパッカーたちはヤンゴンの空港に到着してからの、戦いに備えてあれこれ考えたものです。

同じ飛行機には他にも日本人バックパッカーが乗り合わせていたので、あれこれ相談し合ったのです。

いざ空港に到着。

入国手続きの最後に強制両替が待っていました。

強引に突破しても問題ないという噂もありましたが、もしものことを考えるとそれは控えたい手段でした。

それぞれのバックパッカーはそれぞれのやり方で素直に両替せず、ちょっとした悶着が起こりました。

人によっては「お前ら軍事政権の言いなりになんかなるものか!」と喧嘩腰の人もいましたし、私も含め英語の下手な日本人バックパッカーたちでしたが、口々に言いたいことを言って粘るのでした。

私は値切るという手段を使いました。

しつこく粘って300us$の両替のところを150us$まで値切りました。

政府関係のことで、値切るという交渉が出来ることは私の常識では嘘みたいなことでしたが、それ程いい加減なものだったことは、こちらにとってはめっけものでしたし、裏には暗黙の値下げレートが存在していたのだろうと思います。

そしてその時にいたバックパッカー全員が、空港の前に待機していたゲストハウスの送迎バスに乗り、同じ宿にチェックインしたのでした。

ヤンゴン

宿の名前が「ホワイトハウス」だったことと、うす暗い体育館のような広い部屋がドミトリーになっていて、二段ベットがずらっと並んでいたのですが、あのような宿は他で見たことがないので、凄く印象に残っています。

そして次の日には、使い勝手の悪いFECの紙切れを、闇両替屋に行き現地通貨のチャットに替えました。

普通に考えたらドルと同じ価値でないとおかしいのですが、両替レートはドルよりはるかに悪く、いかにこのFECが信用が無く、強引な制度だということを実感しました。

でもね、ミャンマーの人々のおおらかで人当たりの良い印象は、空港にいた軍人からでも感じたのです。

私のミャンマーでの第一印象は、人が良くて擦れておらず素朴な人々が素敵だということでした。

それは最後まで変わることはなかったです。

ミャンマー タナカ

アウンサンスーチー氏の忍耐強さはには頭が下がるのみです。

ヤンゴンではアウンサンスーチー氏の家を見に行こうという話もありましたが、当時私は政治にはまったく興味が無かったので行きませんでした。

アウンサンスーチー氏の詳しい経歴は知りませんが、軍事政権によって自宅軟禁にされて不自由ながらミャンマーの民主化に忍耐強く尽力したのは間違いないと思います。

私は民主主義が絶対正解で正しいという風には考えませんが、民主化の道を進んでいたミャンマーに、2021年の2月に軍事政権によるクーデターが起こってからの様々な報道を見ると、いたたまれない気持ちになります。

アウンサンスーチー

2022年6月22日からアウンサンスーチー氏は数々の刑法違反をしたとされ、罪人とされ刑務所に入れられています。

さらに刑期はどんどん積み重ねられています。

ここまで強引なやり方には虫唾が走ります。

民衆の声がどちらが正しいのかをはっきりと証明しているようですが、それすら武器による力づくの弾圧で多くの犠牲が出ました。

ミャンマー2022

私がミャンマーに行った時の軍事政権から民主化を果たした時には、なんとなくですけれど、アウンサンスーチー氏の不屈の忍耐強さが実を結んだのだろうと嬉しく感じたものですが、それがまた…

吐き気がします。

HanaAkari

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