邦画「私は貝になりたい」の原作のリアリティーさに考えさせられました。
戦争という行為の矛盾はそうすればなくなるのでしょうか?
かつて日本は太平洋戦争を引き起こし負けて裁かれましたが、裁きとは勝者の理屈による裁きにしかならないということを、この本は物語っていました。
また、戦争という行為が一生懸命に良く生きようとする人間の可能性を蝕んでしまうことが、戦争体験者の心の叫びから伝わり、普段なら良く生きようとする人間の中に制御されている悪魔的な一面を助長させてしまうのだと思います。
戦争には常に心の中にある矛盾と葛藤と向き合いながら節制することで、より良く生きようとしている真面目な人をも狂わせてしまう、暗黙の恐ろしい力をはらんでいることが何よりも恐ろしくて、もし罪があるのなら、個人にではなく戦争を起こした人類全体にあるのではないでしょうか?
何がA級の戦犯で何がBC級の戦犯かなどは、便宜上に落とし前を付ける上での建前でしかないように感じました。
どれだけ正義を訴えても矛盾にしかなりませんので、正義という観点自体が間違っているようにも思います。
例えば日本側に囚われた連合国側の捕虜のために、少ない軍部からの配給では捕虜に十分な食事を摂ってもらうことが出来ないので、何とか手に入れたゴボウを捕虜の食事に出したら、戦後の裁判では「木の根を食べさせられた」「とんでもない扱いだった」ということになり、裁かれるのです。
何とか出来る範囲で精一杯のことをして、ゴボウを用意した善意はいったい何処に行ってしまったのでしょう?
やるせない気持ちと侘しさが、どこまでも人の心を傷つけます。
これが平和の時だと、ゴボウの根を食べるのは世界中で日本人だけだという食文化の違いによって、すれ違いが起こった可愛らしい出来事になるはずです。
「てっきり、木の根を食べさせられるのかと思って、びっくりしたよ…」
「ゴボウは食物繊維が豊富で栄養があるんだぞ…」
このような会話に発展することでしょう。
いかに戦争が人の心を暗黒側に引っ張るのかが想像できます。
不条理しかない弱い立場の個人のやるせない心の叫び声が、「私は貝になりたい」ということなのかもしれません。
もう、人間なんて疲れた、何言っても聞いてもらえないんだったら、口も心も完全に閉ざして海の底でひっそりと生きようということなのかもしれません。
なんて悲しいことなのでしょうか。
常に自分が正しいという正義の心が、戦争を引き起こしてしまうのではないでしょうか?
その中で傷付けられた良心は貝になるしかないのでしょうか?
考えさせられました。
本の中に加藤哲太郎氏の他人を思う人柄が、にじみ出ていて好感が持てました。
冷静な視点からの文章表現も好きでした。
苛酷な実体験からの記録ゆえに重さがあり、きっとそれぞれの読み手に届く何かがあるような作品に感謝いたします。
「死刑」について考えさせられました。
戦争犯罪という背景がある中でも、戦勝国の価値観からの正義に基づいて「死刑」が宣告、執行された事実には、どうしても不条理な理不尽さを感じました。
究極はそのような価値観など全て超越した、神に等しいような感性の人々にまで成長した人間社会になれば言うことなしなのかもしれませんが、今のところ机上の空論のように感じます。
二度と人間に生まれ変わりたくないという気持ちから、「私は貝になりたい」という言葉が、ため息交じりにこぼれ出てしまう訳ですから…
私は本当に死刑に値する罪を犯したのですか?これは冤罪ではないですか?という心の声は一切報われず、もし冤罪ならば死刑にしてしまうと取り返しが付かないのではないでしょうか?
戦争犯罪のみならず、刑罰のおいて「死刑」は極刑とされていますが、私は冤罪で死刑にされる可能性があることや、死んで罪が解消されるとも思えないので、「無期懲役」という懲役の方がまだ罪滅ぼしになるのではないかという風に思います。
強制的とはゆえ、働くことで価値のあるものになるからです。
死刑になって納得がゆく可能性があるのは、被害を被った側の思いや気持ちの部分だけで、死刑になった本人は反省などしないままかもしれません。
生きるということの方が辛い事が多そうですし、長い時間があればあるほど考えることも多くなりますので、否応でも自分と会話する機会が起こりそうですし。
江戸時代には「島流し」という刑罰があったように、今でしたら「尖閣諸島」に住んでもらうとか、刑務所を建てて労働に従事してもおらうというのはいかがなものでしょう。
それでしたら、「尖閣諸島」の刑務所で服役しているだけで、日本国民の役に立つことになりそうですが…
そこに配属される刑務官さんらのご苦労を考えると、二の足を踏みそうですが、ボーナスをはずむとか?そこは現実的な解決策もありそうですが…
少々感情的になってしまいました。
原文での「私は貝に生まれるつもりです」の後の文章には、やるせなさからの自暴自棄なところがあって、映画とは違うリアルな闇を感じました。
「私は貝になりたい」といったら映画を思い浮かべる方が多いと思います。
映画版の「私は貝になりたい」は戦争犯罪者として処刑された人物の実在する遺書を基に、脚本された作品です。
画像として美しく表現されている部分もあることと思いますが、素晴らしい作品には違いありません。
しかし実際の原文では生々しい憤りがそのまま表現されている所が多いので、そのリアルさに心苦しく感じることになりましたが、それを知れたことにも意味があったと思います。
原文の「私は貝に生まれるつもりです」の後の部分を抜粋します。
どうしても生まれかわらなければならないなら、私は貝に生まれるつもりです。
外が明るくなっている。少し疲れてきた。今日、私が殺されるというのに、地球は、やはり廻っている。明日、私はもう、この世にはない。けれどもまた夜がきて、また夜が明ける、ふしぎだ。私がなくなってしまうのに次の日があるなんて、次の日は私に存在しないのに、他の人には存在する。
明日は、私は疲れはてた身体を、ゆっくりと休ませることができる。だが他の人々は苦しみあい、だましあうのだ。誰かが殺し、誰かが殺される。
私は貝になりたい/あるBC級戦犯の叫び:加藤哲太郎著より
HanaAkari