しかし私は「間」や「余韻」や「散り際の美学」の方により惹かれます。
最近は忘れつつありますが「武士道」のような感覚も影響しているようにも思います。
このブログは言葉から連想したことを自由に書いています。時に勇気や喜びをもらえたり、慰められたり、癒されたり、言葉には力があるように思います。そんな素敵さや楽しさを少しでも表現できたら幸いです。
【打ち上げ花火】散る美学と海の向こうの花火師たち|言葉の小槌43
【打ち上げ花火】
花火の余韻が好きです。
特に夏の夜空に咲いた一輪の巨大な花の散り際、闇に少しずつ消えていく炎の残骸が見せる刹那の美によって、しばらく心に残像が残り、儚さを想うのですが、そのようなナルシストな自分に存分に浸れる瞬間がいいです。
もちろん派手に連続して打ち上げられる色とりどりの花火の迫力も、時には息をするのも忘れて見惚れてしまう程なので、間違いなくそれも打ち上げ花火の醍醐味だと思います。
しかし私は「間」や「余韻」や「散り際の美学」の方により惹かれます。
「儚さの美学」と申しますか、桜の花も散り際の風に吹かれて儚くも美しい「桜吹雪」に一番感動します。
執着しない美しさですが、散ってもそれで終わりではなく、心に刻まれた余韻が美しさを尚、引き立てていくのだと思います。
最近は忘れつつありますが「武士道」のような感覚も影響しているのかもしれません。
バンコクにいる時に韓国人の友人とお酒を飲みながら話したことがありました。
ある「侍」の話を始めて、私にどう思うか?訊ねてきました。
「侍の子供が団子屋の主人から、団子を盗んだと疑いを掛けられた」
「侍は容疑を晴らすために自分の子供の腹を刀で割き、無実を証明した後、自分も切腹した」
「この話を聞いてどう思う?」
私は迷うことなく拙い英語で「ビューティフル ストーリー」と答えましたら、「日本人はそう思う人が多いようだけど、ほとんどの韓国人には残酷で馬鹿な信じられない話にしか思えないし、美しさは微塵も感じない、たかだか団子のことで自分の子供も殺して、自分も死ぬなんてナンセンスだ」という返答が返ってきました。
確かにその通りですし、私は真似することはできないので、間違いなく別の方法で対処すると思うのですが、私の認知していない奥底には、「日本人の血の業」のようなものがあるんだなと思った会話でした。
外国の人との交流は自分自身が普段意識していない、日本人である私の癖に気が付けることがあって面白いです。
以前テレビ番組で日本の職人と外国人の職人が技術の粋を競い合い、どちらが現地の人に高評価を得られるかを競うといったものがありました。
日本のものは優れていることが多いと思いますが、あまり自画自賛するのは美しくないように思います。
しかし、その番組で「打ち上げ花火」の勝負があった回は余すことなく見ました。
結果は私も同感で、日本の花火職人チームの勝利だったのですが、結果云々よりも勝負が行われた場所に興味があり見入ってしまったのです。
「イタリア」の「アマルフィ」という場所が舞台でした。
私が一度行ってみたい場所の筆頭ですので、ただでさえ美しい「アマルフィ」に日本の打ち上げ花火が上がるのを見逃すわけにはいきませんでした。
世界遺産でもあるアマルフィ海岸の海辺の崖に、段々上に形成された「アマルフィ」の町。
南イタリアにあり、「ナポリ」より少し南に行った所にある美しい「アマルフィ」に日本の打ち上げ花火が上がったなんて素敵じゃないですか。
「アマルフィ」とは女神の名前だそうです。
行ってみたいです。
今年は慎ましく「線香花火」で楽しもうかな。
「線香花火」はもっとも儚さを感じることができる、「打ち上げ花火」とは逆の「至高の花火」だと思います。
最後に小さな火の玉が「ぽとっ」と落ちるところに刹那の美を感じます。
HanaAkari