遠藤周作氏の力強い想いがぶつけられた「聖書」物語だと思います。
私は今までに「聖書」を読んでみようと思い立ったことはありますが、少しつまんではすんなり入ってこない文面にいつも挫折していました。
そんな私のようなものには、どなたか現代人のフィルターを通して、馴染みのある文面で書かれたものの方が性に合っているようです。
「イエスの生涯」は、遠藤周作氏のフィルターを通して表現された「聖書」物語でした。
言葉が理解できますし、私個人ではチンプンカンプンになってしまうであろうことも、解釈してくれているので、普通に物語として楽しむことが出来ました。
ですが、そのままを鵜呑みにはしないですし、例え今は理解できなくても自分で考え、感じたものを大切にしようと思っています。
「イエスの生涯」は遠藤周作氏の〈イエス・キリスト〉に対しての心の表現ですが、感銘を受ける部分が多くありました。
「聖書」に直接向き合うと力量不足によってフリーズしてしまうので、フリーズせずにその世界に触れられたことは非常にありがたかったです。
おかげさまで、〈イエス・キリスト〉の人柄が想像し易いのですが、それ以上に私が引き込まれていったのには、遠藤周作氏の想いが籠もった力強い文章にあったと思います。
美辞麗句を並び立てて〈イエス・キリスト〉を崇め讃えるようなことがなく、想いの限りをぶつけているようでした。
そのような印象を受ける箇所が随所にありました。
過酷な現実に生きる人間は神の愛よりもはるかに神のつめたい沈黙しか感じぬ、過酷な現実から愛の神を信ずるよりも怒りの神を考えるほうがたやすい…
心貧しき人や泣く人に現実では何の酬いがないように見える時、神の愛をどのようにつかめるというのか。
〈イエス〉は神の愛を人々にどのように伝えるかがテーマであり、人々が望んだ現実的な「地上の救世主」ではなく、「愛の救世主」となった。
遠藤周作氏のイエスの弟子たちへの、「弱虫」という描写が面白かったです。
裏切者の汚名を着せられているイエスの弟子の一人〈ユダ〉ですが、遠藤周作氏の〈ユダ〉に対する解釈は角度が違っていて興味深かったです。
また、他の弟子たちも最終的には、〈イエス〉を裏切った「弱虫」だったと表現しているのが面白かったです。
〈イエス〉がゴルゴダの丘で処刑される前に逃げ出した「弱虫」の弟子らが、何故〈イエス〉の死後、あれ程に〈イエス〉の言葉を懸命に世に伝えられたのかが謎だと書かれていました。
〈イエス〉は無力なまま悲惨な死を迎えるも、裏切ったものに対し恨み言一つ口にせず「愛」を示したことが、裏切った「弱虫」の中にある「後悔」の念に灯をともし、価値転換を促したのではないか。
さらには「復活」の奇跡の謎に決定的な何かがあったのではないかと…
もちろん私には正解が何かは分かりません。
ただ、突如として、自分で自分のことが不思議に思うくらいの心理的な変貌が起こったことはあります。
それは、私の母が末期の癌だと分かり、余命四ヶ月だと宣告された時でした。
それまで、親不孝の限りを尽くし、親の脛は齧れるだけ齧りつくす勢いだった私が、いきなり何を思ったのか「このままではよくない。たとえ医者が抗癌剤の投与で延命は出来ても、治ることは絶対に無いと言ったとしても、諦めることは間違っている」そんな風に、突如スイッチが入ったのです。
身近な大切な人の「死」の影と、親孝行を一つもしてこなかかったことへの悔いが、それこそ「弱虫」の私を奮い立たせたのは確かだと思います。
ですから私は、人間には何かの拍子に突然目覚める何かが、仕込まれているのではないかと思っています。
それは〈DNA〉なのか、心なのか、魂なのか、何なのかは分かりませんが、胸の奥にある大切なものだろうという気はします。
HanaAkari