忘れられない神を追って「死海」へ赴くほど、心に沁みついたほてりが熱を帯びて、想いがほとばしっているようでした。
強い想いが込められているのが伝わり、目眩を覚えるほどでした。
怒りや憤り疑念、それなのにイエスの愛を捨て去ることが出来ない自分の中にある葛藤が、赤裸々な文章表現にぶつけられているようで、その力強さに圧倒されました。
遠藤周作氏は、キリスト教を信仰する両親の元に生を受け、神学を学んだ経緯があるようですが、ご本人は素直に謙虚に神の言葉を受け入れることが出来なかったようです。
今は信仰は無いと言いながら、イエスのことが忘れられない、ずっと気になっているその矛盾と真正面から向き合い、自分の気持ちに決着をつける為に、イエスの足跡を追い死海のほとりへと訪れたようです。

その時、現地で実際に体感した事の旅行記と、イエスの時代に遡って当時の情景を空想するパートとが「死海のほとり」全体の構成になっていたのですが、交互に語り掛けてくる情景がまるでイリュージョンのように襲ってくるようでした。
微熱が出そうなくらい言葉に力が籠もっていました。
もしかしたらそれは読者に向けたものではなく、自身に向けた呟きに知らず知らずのうちに力が籠もったのかもしれないと思ったのです。
私は綺麗事を並べ立てるような神様論よりも、このような灰汁の強いものの方が信頼でき、真剣なのが伝わってくるので好きです。
死海のほとりを共に巡る友人、もしくは同志なのか?の言葉が印象的でした。
「生きている者の辛さや哀しみをあまり多く見れば、誰だって一人になって、神とは一体なにかと考えたくなるだろう」
イエスに人生を横切られた者の宿命なのでしょうか?
「愛」の痕跡は、それがたとえひねくれ者であっても決して消し去ることの出来ないものなのかもしれません。

最終章「ふたたびエルサレム」では、意識が朦朧とするくらいの圧倒されました。
最終章では、場面の切り替わりで目眩を感じる感覚が最高潮に達しました。
気が付かない内に場面が切り替わっていて、別々の情景が描かれているのに一体化されているのです。
何かしらで極限状態に陥った時のような、時間や空間がいつもと違う感覚でした。
強烈な想いが走馬灯のように駆け巡っているようでした。
ナチスによるホロコーストの場面も出てくるのですが、ぼろ雑巾のように虐殺されていく強制収容所にあって、身代わりで犠牲になって死んだ神父の行動を見て、囚人の一人が呟きました。
「世界はどうして、こう……美しいんだろう…」
目眩が止まりませんでした。

「死海のほとり」は「イエスの生涯」と表裏をなす作品とありました。
あとがきに「死海のほとり」と「イエスの生涯」は表裏をなす作品とあったのですが、どちらも想いの丈を存分にぶつけられている力作だと思います。
ですが、私は生々しいえぐみがある「死海のほとり」の方により強い衝撃を受けました。
忘れたくても忘れられないイエスの「愛」に向き合わざるを得ない苦悩と怒り、葛藤が赤裸々に語られているのが正直に感じられたからです。
そして、認めたくなくても「希望」を見つけだそうとする心根に好感を持ちました。
HanaAkari