- ダッカ〈Dhaka〉
ミャンマー〈ヤンゴン〉から飛行機でバングラデシュ〈ダッカ〉に到着しました。当時バングラデシュは世界一の貧困国と云われていました。人の密度、リキシャだらけ、人々の純粋さ、貧しさ、まさにカルチャーショックでした。同じ飛行機に乗り合わせた日本人女性Hさんと共に、私と友人とHさんの3人での珍道中が始まりました。 - ボグラ〈Bogura〉
インドへ向けての途中の町でした。私はダッカにいる時から下痢が酷くなり、ここで〈アメーバ赤痢〉だということが判明しました。町の記憶は一切なく、私はずっと寝込んでいました。
- 夜行列車と蛍〈忘れられない列車から見たホタルの乱舞〉
〈ボグラ〉からインドに向けての移動の夜行列車で、目を疑うような数の光るホタルを目撃しました。列車はまるで銀河鉄道のように、ホタルが照らす光の道を走っているようでした。
- インドへ〈India〉
親切なバングラデシュ人の助けがあって、なんとかインドに入国できました。国境を越えてからその日のうちに〈シリグリ〉という町まで辿り着きました。
このブログは私がバックパッカーとして、1997年9月20日出国~1999年11月16日に帰国するまでの間に訪れた場所を、四半世紀後の私が思い返してみたら、一体何が出てくるのだろうか?という好奇心から古い記憶を辿り、出てきたものを書いてみることを試みたものです。
【ダッカ】|旅の玉手箱 バングラデシュ編-1
【ダッカ】
カルチャーショックを受けました。
精神的なショックではカルチャーショック大国インドが王道でしたが、ごった返した町の喧騒や、〈リキシャ〉と呼ばれる人力車の多さ、通りによっては歩くのにも苦労する人混み、砂埃、辺り一面に充満している香辛料の香り、極貧国と云われていたバングラデシュでしたが、人々の熱気、生命力のようなもの、全体の空気そのものが私がそれまでに経験したことがないものでした。
圧倒されました。
ダッカからミャンマーのヤンゴンからの飛行機で、日本人女性Hさんと一緒になりそのまま、私と友人と3人での旅がしばらく続きました。
Hさんとはミャンマーに入国した時と、最初の宿までは同じだったのですが、それ以後はそれぞれの旅行を楽しんで、たまたま空港で再会したのですが、旅は道連れの言葉通り、バングラデシュのような外国人旅行者も少なかった場所では心の奥には不安もありますから、日本人同士、自然と団結するのはよくある流れでした。
私たちが宿泊した安宿の前の通りはマーケットや食堂などが多く、いつも人で溢れていました。
少し先にある食堂まで歩いて行くのも、人混みをかき分けて進まないといけなかったので、ちょっとの外出だけでも体力を消耗する有様です。
いつしか私たちは歩くのを諦めて、50メートルくらい先にある食堂までも〈リキシャ〉を利用するようになりました。
そしてフィッシュカレーを食べるのが定番でした。
本場インドカレーのフィッシュバージョンです。
バングラデシュでは海が近いからでしょうか?食堂でも一番の定番のメニューだったように思います。
何処に行くにも宿の前から〈リキシャ〉に乗って動くようになりました。
それまででしたら少々距離があっても歩いて行くことが多かったですが、ダッカでは到底そのような気にはならないくらい、歩くことでのストレスが大きかったです。
ダッカでインドの観光ビザを取得する必要があったので、結構長く滞在したと思います。
〈リキシャ〉で町の中を移動していると、高い位置から周囲を客観的に見ることができました。
川沿いはゴミ捨て場になっていることが多く、ゴミの山が堆積していて、ゴミの後処理まで考えるまでには至っていなかったのだと思います。
目の前の生活に精一杯、生きているという感じでした。
ゴミの山にはゴミをあさって生活をする人々の姿も多く見かけました。
子供もたくさんいました。
日本ではさほど裕福でなくても、そういった状況とは無縁で生活できていた私には、口から出す言葉は見つかりませんでした。
そして、ずっと恵まれていたのだということに気が付きました。
虚構ではない目の前の現実は痛ましいのですが、私は〈リキシャ〉の上から偉そうに眺めているだけのお気楽な旅行者で、無力…目を背けても現実は変わらない…ただじっと目に映る光景を思考停止に陥りながら眺めていました。
当時、何か暴動が起きていたのでダッカより南の方面へは行くなと現地の人からアドバイスされました。
脳天気な旅行者だった私らは、バングラデシュの一部の地域で暴動が起きていると聞かされても、他人事としか捉えておらず、身の周りでは至って問題が無かったので、特に気にすることはありませんでした。
こういった事は往々にしてあり、自分の周囲に火の粉が飛んでこない限りは無頓着なもので、気が付いた時には大事になっていたりします。
あの時は、ダッカより南の側へは行くなと教えられ素直に従いました。
というか交通の便が遮断されていたので、行くことが出来なかったというだけなのですが…
チッタゴン、コックスバザールといった町があり、ミャンマーに近い地域のことでした。
理由は分かりませんが、経済的なことだったのか?現在も大きな問題になっているロヒンギャ難民の多く住む地域ですので、もしかしたらそういった事情も絡んでいたのかもしれません。
そういった現地の人々の事情など一切知らないで、道端で枝に実が付いたままの状態でどっさり売られていたライチを頬張りながら、私が旅に出る前にはメジャーデビューしていなかった「Kiroro」の「長い間」のシングルCDをリピートで聞きながら、「この曲、いいなあ」なんていいながら、与太話に花を咲かせていました。
本当、おめでたいものです。
「Kiroro」の「長い間」はHさんの気に入りだったようで、CDウォークマンと一緒に携えて旅行に出てきていたのでした。
バングラデシュの人々は人懐っこくて、誠実で素晴らしかったです。
お金があることと人々の幸福感は反比例するといった話も聞いたことがありますが、少なくてもお金だけが裕福の基準ではないということは、バングラデシュの人々と接して感じました。
バングラデシュは当時世界で一番の極貧国だといわれていましたが、人々は明るく屈託のない笑顔が印象的で、それはストリートチルドレンであっても変わらない印象を受けました。
外国人が珍しいのか、外を歩いているといつしか、私たちの後ろには人だかりが出来ていて、ずっと付いてくるのです。
有名人が追っかけや、取り巻きに付いて回られるような感じで、気恥ずかしかったです。
外国人が物珍しかったのでしょう、また社交的な性格の方が多いのか、片言の英語で話しかけてくる人も多く好意的で嫌な思いは一切しませんでした。
一度、〈リキシャ〉に乗った時に座席に財布を落としてしまったことに、降りてしばらくしてから気が付いたことがありました。
「しまった!」と思っても後の祭りで、外国ではこういった場合はまず諦めざる得ないのが通例です。
私はこれまでの経験で「これは戻ってこない、仕方がない、不注意だった」と瞬間的に諦めたのですが、なんと座席に落とした財布を手に掲げて大きな声を発しながらリキシャマンが追っかけて来たのには正直、感謝よりも先に驚いてしまいました。
財布は無事に戻りめでたしめでたしなのですが、その時には周囲に人だかりが出来ていて、「良かったなぁ~」といった具合に自分事のように周りの人も喜んでくれたのには、照れもありましたし、どちらかというと私は陰よりの性質なだけに戸惑いも大きかったです。
でも心の中ではとても嬉しかったのですが…素直でない性分は損だなと思います。
HanaAkari