何かを決断しないといけない時は、自分は本当はどうしたいのかを深部にまで追求できれば、後から後悔することはなくなると思います。
結局は自分がどうしたいかが大切なことだと思います。
このブログは言葉から連想したことを自由に書いています。時に勇気や喜びをもらえたり、慰められたり、癒されたり、言葉には力があるように思います。そんな素敵さや楽しさを少しでも表現できたら幸いです。
【結局は自分がどうしたいか】道を何かに委ねない|言葉の小槌134
【結局は自分がどうしたいか】
何事も結局は自分がどうしたいのかが、大事なように思います。
何かを決断しないといけない時は、自分は本当はどうしたいのかを深部にまで追求できれば、後から後悔することはなくなると思います。
その時に必ずといっていいほど出てくるのが、「だって」「でも」「できれば」みたいな、言い訳言葉なのですが、私はこれが出てきた時は一旦「黙って下がってくれ」と自分自身に投げかけるようにしています。
まずそのようにしないと、圧倒的多数の責任逃れ好きの甘い囁きに支配権を委ねてしまうことになるのが分かっているからです。
ひねくれ者の私は、自分の中の一人が甘く囁くように「だってもう疲れたよ、十分やったんじゃない」と言ったら、「でも、頑張れ」とか言って切り返したりします。
本当はストイックに自分を追い込むことは好きではありませんが、それ以上に嫌なことは、自分でしっかりと考えて決断して進まなければ、最後には誰かのせいにして自分を正当化させようとするのが目に見えているからです。
結局は自分がどうしたいかが大切なことだと思います。
それが基準にあれば、どのような結果になっても自分が選んだことだと、それがたとえ苦しくても納得させることはできるでしょう。
決断が出来ないと思う時でも、結局は選んでいる思います。
大きな決断を迫られ、決めかねる場合もありますが、そんな時に白黒つけずにやむなくグレーになったとします。
しかしそれはグレーを選んだということだと思うのです。
一見すると自分には選択肢がないような時でも、それは選択肢がないことを選んだということだと考える方が、何かの場合には幸いな方向に繋がる可能性が大きいはずです。
選択肢が無かったから仕方なくこっちを選んだんだということは、一見自分で決めることが出来なかったように見えますが、それすら自分で選んだこととして責任を負わなければ、何か都合の悪い方に向かった場合、誰かのせいにしたり、こんなはずでは無かったと、負の連鎖にがんじがらめにされてしまいがちです。
何もかもが都合の良い方向に進めば、そんなことを考える必要はないのかもしれませんが、まずそんなにすべてが都合よく運ぶ方ことの方が珍しいものですので。
仕方なしを選んだのも自分が選んだことだとしておけば、都合の悪いことになっても、自分の責任において選んだのだから、これも仕方なしとすることができて、何かを恨んだりする必要はなくなります。
そして次に向かって、一歩踏み出す勇気があれば幸いです。
これは私の中にいる様々な人々が、どんなにうるさく言ったとしても、私自身の指揮権を何か別のものに委ねない為の私なりのやり方ですので、決して鵜呑みにされないで下さい。
どんな時も自分自身の心の声を大切にして欲しいですし、できれば幸いだと思います。
HanaAkari