通夜や葬儀の場に行くこともいつしか回数を重ね、その度に私自身の葬儀観はぼんやりとして霞んでいる状態から、薄っすらとですが見えてきたように感じます。
どんな宗教でも無宗教でも関係なく、天国も地獄もなくただ帰るのだと思いますし、そうであって欲しいと願います。
このブログは言葉から連想したことを自由に書いています。時に勇気や喜びをもらえたり、慰められたり、癒されたり、言葉には力があるように思います。そんな素敵さや楽しさを少しでも表現できたら幸いです。
【帰る人送る人】源に帰る人とケジメをつける葬儀|言葉の小槌159
【帰る人送る人】
91歳の大往生で伯母があちらに帰りました。
通夜や葬儀の場に行くこともいつしか回数を重ね、その度に私自身の葬儀観はぼんやりとして霞んでいる状態から、薄っすらとですが見えてきたように感じます。
私はどんな形態であれ亡くなれば肉体を離れ、源に帰るのだと今ではそう思っています。
どんな宗教でも無宗教でも関係なく、天国も地獄もなくただ帰るのだと思いますし、そうであって欲しいと願います。
天国や地獄といった発想は、生きている人がより良く生きるための方便なのではないでしょうか?
とはゆえ、私の身の周りでは一般的な葬儀は仏教形式にのっとって行われる場合が多く、そういった場に行くと、私がどれだけ亡くなった人はあちらに帰るだけで、何の憂慮もいらないと考えていても、自然と涙がこぼれ落ちる時が必ずあります。
おそらく送る側の人々のそれぞれの思いが、その場全体に充満して悲しみの空気に包まれるからなのでしょう。
そして、その涙によってそれぞれが深い悲しみから癒されるのではないでしょうか?
葬儀は帰った人の為というよりも、送る人がケジメを付ける為の時間なんだという気がするのです。
「死」を通してそれぞれが、心に何かしらを刻まれるように思います。
たとえその時には、悲しみに翻弄されてしまい特別なにも思う事が無かったとしても、きっとそれぞれの心に何かしら刻まれるものがあり、ある時、ふとした瞬間にぽっと灯るようなものが訪れるのでしょう。
それは帰る人からの最後の秘めた贈り物だと思います…
HanaAkari