おそらくあのようなことを「走馬灯のように蘇る」というのだと思います。
それは「走馬灯」のように夢のようにゆっくりと流れていくというよりも、コンピューターにも負けないのではないかという程のスピード感がありました。
このブログは言葉から連想したことを自由に書いています。時に勇気や喜びをもらえたり、慰められたり、癒されたり、言葉には力があるように思います。そんな素敵さや楽しさを少しでも表現できたら幸いです。
【走馬灯】思い出が巡る時のスピードは異次元でした|言葉の小槌47
【走馬灯】
一度だけ「走馬灯」のように様々なことが脳裏をよぎる経験をしたことがあります。
おそらくあのようなことを「走馬灯のように蘇る」というのだと思います。
私は通勤路を原付で急いでいました。
遅刻しそうだったので抜け道をかなり飛ばしていました。
細い道では自動車よりも原付の方が小回りが利き、スピードを出しやすいので、とにかく急ぐことしか考えておらず、身勝手な行動でした。
一台の車の横をすり抜けようとした時に、車が急に左折し始めたのです。
交差点でもないのでまさか左折するなんて想定できませんでしたが、駐車場に入っていくために左折した際に巻き込まれたのです。
一般的には車の後方確認不足になりますが、私も相当なスピードで走っていましたので、私にも責任はありました。
とっさに躱すことが出来ずに衝突して、私は投げ飛ばされ、しばらく地面を滑って電柱に当たって止まったのですが、その間にどれだけのことが脳裏に過ったのか分からないくらい、様々な画面を瞬間的に見たのと、「事故で仕事に間に合わないぞ」「早く連絡しないといけない」といったことまでも瞬時に考えていました。
それは「走馬灯」のように夢の如くゆっくりと流れていくというよりも、コンピューターにも負けないのではないかという程のスピード感がありました。
もしかしたら人間の脳は、特殊な条件下では「スーパーコンピューター富岳」にも勝るのではないのでしょうか?
間違いなく「3G」よりも早いと思います。
大きな衝撃の事故でしたが、革ジャンが地面と擦れて破けていたくらいで、幸いなことに打撲以外の怪我はなかったのですが、若気の至りでした。
原付は少々ボディーが欠けた程度でしたが、相手の車は一メートルほど下にあった田んぼに頭から突っ込んでいました。
そちらも幸い大きな怪我はなかったようですが、地面を滑っていく私を轢かないようにするためにハンドルを切ってくれたようです。
走馬灯のように蘇る記憶を体験させてもらえましたが、あまり宜しくない出来事でした。
走馬灯はやはり、情緒ある穏やかなものが宜しいです。
風情がある走馬灯がいつまでも人々に愛されていきますように。
私も若い頃から走馬灯の風情を感じ取れる人間であったら、あのような事故は起こさなかったでしょうが、そのような人間でもなんだかんだと、今も生かしてもらえているのは有難いことです。
私は車、バイク関係で事故を起こしたことは、一度ではなく何度もやっていますので、かなり我が強くてなかなか学習しなかった訳ですから、なおさら感謝しかありません。
私が最後の時には自分でも満足に思えるような「走馬灯」が見たいものです。
HanaAkari