「それに対して答えがあるとしたら、人類全体が今の人間から進化して「ミュータント」になることかもしれません。」
「人が人を裁くことはできないはずだと思いました。」
このブログは言葉から連想したことを自由に書いています。時に勇気や喜びをもらえたり、慰められたり、癒されたり、言葉には力があるように思います。そんな素敵さや楽しさを少しでも表現できたら幸いです。
【私は貝になりたい】手紙からの創作に涙しました。|言葉の小槌64
【私は貝になりたい】
私がこの言葉を初めて知り、今でも憶えているのは、なんとなくその気持ちが分かるような精神状態だった頃があるからだと思います。
何かの文面で見た記憶があるのですが、それが何だったのかは思い出せませんが、国語か道徳の教科書ではなかったかと思うのですが、「私は貝になりたい」=「心を閉ざしたい」そのように私は想像していました。
毎年、8月になると8月6日広島、8月9日長崎への原爆投下の日、8月15日終戦の日など戦争関係のニュースが気になります。
日本人だけでなく世界中の人間にとって、計り知れない痛みと悲しみという代償を支払って学んだ歴史を改めて意識する機会です。
しかしながら地球上で戦争は今も行われています。
それに対して答えがあるとしたら、人類全体が今の人間から進化して「ミュータント」になることかもしれません。
横道にそれましたが「私は貝になりたい」は1958年に制作されたテレビドラマが最初で、後にリメイク版がいくつか制作されています。
私が映像で見たものは中居正広氏主演の映画版です。
映画「私は貝になりたい」2008年公開版
映像が美しい映画です。
それがストーリーの重さから目を背けないようにさせる効果があるように感じました。
リアルにまともに表現してしまうと、苦しくなって見るのを途中で止めてしまうかもしれませんので、フィクションとしてしっかりと目を開いて見てもらうことで、「伝えたいこと」を感じとってもらいたいという思いが込められているように思います。
内容は胸が詰まるもので、戦争によって翻弄される一家族を描いた物語です。
終戦近くに日本陸軍に徴集された主人公が、戦時中に上官の命令でアメリカ兵の捕虜の処刑を命じられ実行、戦後それが理由で戦争犯罪者として逮捕され、死刑に至るまでの話です。
裁判のシーンでは当時の「日本の常識」と「アメリカの常識」のあまりにもの大きな違いに、「真実とは一体何なのだろう?」と消化しきれない気持ちになりました。
天皇陛下の為、お国の為と信じて疑わない当時の日本人にとって、上官の命令は天皇陛下の命令に同じで絶対でしたので、処刑を命じられた主人公が「上官の命令でやりました」と訴えるのは当然のことですが、それに対してアメリカ側は「殺害の意志があったのだろう」「殺害の意志がなければ、なぜ上官にそう訴えなかったのか?」と話が全く嚙み合わないのです。
当時はそれくらいに日本人とアメリカ人の文化や価値観には大きな溝があり、その理不尽さ不条理さで主人公はこう叫びます。
「あなた方はどこの国の話をしてるのですか」
人が人を裁くことはできないはずだと思いました。
死刑が決まり、処刑執行までの間に家族に向けた手紙を綴るのですが、それが「私は貝になりたい」で終わります。
この最後の処刑までのシーンは堪らなく胸が痛みますが、ぐっと引き込まれるものがあり、目が離せませんでした。
「私は貝になりたい」の元となった原文
この「私は貝になりたい」の台本の元になった実際の手記があります。
心の叫びですので、「私は貝に生まれるつもりです」までの部分を少し前の文から、切り取らずに抜粋したいと思います。
天皇は、私を助けてくれなかった。私は天皇陛下の命令として、どんな嫌な命令でも忠実に守ってきた。そして日頃から常に御勅論の精神を、私の精神としようと努力した。私は一度として、軍務をなまけたことはない。そして曹長になった。天皇陛下よ、なぜ私を助けて助けてくれなかったのですか。きっとあなたは、私たちがどんなに苦しんでいるか、ご存じなかったのでしょう。そうだと信じたいのです。だが、もう私には何もかも信じられなくなりました。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍べということは、私に死ねということなのですか?私は殺されます。そのことは、きまりました。私は死ぬまで陛下の命令を守ったわけです。ですから、もう貸し借りはありません。だいたい、あなたからお借りしたものは、支那の最前線でいただいた七、八本の煙草と、野戦病院でもらったお菓子だけでした。ずいぶん高価な煙草でした。私は私の命と、長いあいだの苦しみを払いました。ですからどんなうまい言葉を使ったって、もうだまされません。あなたとの貸し借りはチョンチョンです。あなたに借りはありません。もし私が、こんど日本人に生まれかわったとしても、決して、あなたの思いとおりにはなりません。二度と兵隊にはなりません。
けれど、こんど生まれかわるならば、私は日本人になりたくはありません。いや、私は人間になりたくありません。人間にいじめられますから。どうしても生まれかわらねばならないなら、私は貝になりたいと思います。貝ならば海の深い岩にヘバリついて何の心配もありませんから。何も知らないから、悲しくも嬉しくもないし、痛くも痒くもありません。頭が痛くなることもないし、兵隊にとられることもない。戦争もない。妻や子供を心配することもないし、どうしても生まれかわらなければならないなら、私は貝に生まれるつもりです。
〈私は貝になりたい あるBC級戦犯の叫び〉 加藤哲太郎著
一見、理不尽なことに対しての憤りから、もう人間なんて懲り懲りだという心の叫びのようにしか見えませんが、私はずっと深いの部分では「貝になってでも生まれ変わって、妻子の側にいたい」という魂の叫びではないか?と感じてしまい、胸が締め付けられます。
HanaAkari