心の中にある闇との葛藤を淡々と物語にしたような、こちらも考えさせられるものでした。
テレーズという女性の心の闇を通して、じわじわと自分の中にある闇の部分に問いかけてくるので、決して華やかで派手さのない物語なのに、いつしか知らない間に絡み取られてしまっているような感覚になりました。
たとえ認めたくなくても自分の中にもある闇の部分に導かれ、そこに聖母の手がそっと添えられるような感じが、もどかしいのですが心地良くもあったり…
綺麗な部分だけでは語れない人間の心理が淡々と綴られている、そんな気がします。
間違いなく私が若い頃なら、途中で読むことを止めただろうとも思いました。
昔はどちらかというと「勧善懲悪」な単純な話が好みで、善は良いもの、悪は悪いものといった風に考える質でした。
薄々は自分の中にある闇には気が付いていても臭い物には蓋をして、善人ぶるのが好きだったと思います。
ですからこの物語のように、心の奥底に沈殿しているものをすくい上げてくるようなものは受け付けなかったはずです。
また縁も無かったですし、仮に縁があったとしても拒絶しただろうと思います。

今こうしてこんな立ち眩みのするような物語を読んで、何かしら感じるものがあるということは、私は白黒はっきりさせることに疲れたのかもしれません。
善でも悪でも、神でも悪魔でもないものの中に、希望を見出そうとしているのかもしれません。
こんなことを考えさせられる物語でした。
こんな表現がありました。
「自分の行為のみなもとまでさかのぼろうとした努力、芯の疲れる自分自身への旅、自分自身へとたちかえるという仕事…」
まさにこのようなことに意識を向けさせられるものでした。

この物語を知ったきっかけは〈遠藤周作〉氏でした。
インドが舞台の小説だったことから、遠藤周作氏の「深い河」という作品を読んだことから、遠藤氏の作品に非常に興味を持ちました。
私にとって「深い河」は大変感銘を受けた物語で、そこから遠藤周作氏の作品を読むようになりました。
そして遠藤氏がキリスト教徒だというのを知り、興味はあったものの放置していた〈キリスト〉について触れていく機会にもなりました。
そんな遠藤周作氏にとって「テレーズ デスケルウ」は特別な位置にある本とのことでしたし、遠藤氏の翻訳だったことが、「テレーズ デスケルウ」を読むことに繋がりました。
HanaAkari