秋桜の季節になると、何気に思い出す物語です。
「一つの花」は、小学生の時に国語の教科書で読んだ短いお話ですが、未だにコスモスの季節になると思い出すことがあります。
大人になってから見た、大きな木の下にコスモスが咲き誇り、その向こうに一面に広がる畑、その先には雄大な八ヶ岳が構えている、そんな本物の素晴らしい景観の記憶よりも先に、子供時分の国語の教科書にあった一つの物語のコスモスの情景が優先的に甦ってくるのが不思議です。
日本が戦争の中にあった時代の一場面を物語にしているのですが、物心つかない小さな娘を置いてお父さんは戦地に行くことになります。
娘のゆみ子は「一つだけちょうだい」が口癖で、何でも人のものを「一つだけちょうだい」とおねだりする子でした。
お父さんが戦地に向かう日も、汽車を待つ間にゆみ子は、お母さんがお父さんのために、はなむけとして貴重なお米で握ったおにぎりを「一つだけちょうだい」といっておねだりしました。
お父さんはおにぎりを全てゆみ子にあげて、プラットホームの片隅のゴミ捨て場のような所に咲いていた一輪のコスモスの花を摘んできて、ゆみ子に手渡しました。
「ゆみ。さあ、一つだけあげよう。一つだけのお花、だいじにするんだよう……」
物語は最後に10年後の場面に切り替わり、コスモス畑に囲まれた決して裕福とはいえない家が映し出され、ゆみ子とお母さんの平和そうな日常の情景を見せてくれます。
国語の授業では、「ゆみ子はお父さんの言いつけの通りコスモスを大事にしたのでしょうか?」といった感じの質問があったように思います。
あの時は、「ああ、ゆみ子はコスモスを大事にしたんだなぁ、一輪のコスモスがお花のトンネルをできるくらいに一面に広がっているのだから」といった具合に考えたと思うのです。
そんな感想も改めてこの物語を読んでみると、また違った風景が見えてきました。
ゆみ子はコスモスを大事にしたのは確かだろうと思います。
ただ、摘んだ一輪の草花が種を残し、一面のコスモス畑になることは現実的には考えにくいものです。
お父さんがゆみ子に手渡した一つだけのお花は、多分お父さんの「心」だったのだと思いました。
もっと気恥ずかしい表現をすると「愛」なのでしょう。
その「心」をゆみ子と一緒に受け取り、引き継いだお母さんが、その「愛」を忘れないようにゆみ子と自分の為に、後から別のコスモスをそっと植えたのではないのかなと想像しました。
10年後のあの場面は、どこか遠くの方からお父さんが見ている光景を表現しているようでした。
今西祐行(いまにし すけゆき)氏〈1923年~2004年〉
大阪府出身の児童文学作家です。
広島に原爆が落とされた時には、現地に赴き救援活動を行ったことが印象深いです。
HanaAkari