- プノンペン〈Phnom Penh〉
カンボジアの首都。虐殺の歴史を知りました。
- シェムリアップ〈Siem Reap〉
世界遺産アンコール・ワット(アンコール遺跡群)観光の拠点
このブログは私がバックパッカーとして、1997年9月20日出国~1999年11月16日に帰国するまでの間に訪れた場所を、四半世紀後の私が思い返してみたら、一体何が出てくるのだろうか?という好奇心から古い記憶を辿り、出てきたものを書いてみることを試みたものです。
【プノンペン】キリングフィールドで|旅の玉手箱 カンボジア編-1
【プノンペン】
ベトナムから陸路で国境を越えて、チャーターしたジープで「プノンペン」に着いた時にはあまりに過酷だった悪路の疲れがどっと出ましたが、やっと窮屈な車から解放されたことは嬉しかったです。
5人の旅行者で車をシェアして「プノンペン」にやってきましたので、まずは全員で空腹を満たすために食事を取りました。
私は一口目から「カンボジア料理」の味付けに拒否反応が出てしまい、単刀直入に申しますと「美味しくなさすぎ」て食べるのに苦戦しました。
ベテランバックパッカーのNさんは以前にも「カンボジア」に来たことがあるらしく、様々な国を巡っているけれど、「カンボジア料理」の味は下から数えて…だねと教えてくれました。
「なかなか厳しい味だよね~」というコメントは同感でしたので、よく憶えています。
それから私はゲストハウス等で旅行者向けの食事を食べるようにして、地元の料理はなるべく食べないようにしました。
ですから「カンボジア料理」の味がどのような感じだったのか憶えていないのですが、とにかく私には不向きだったのは明らかで、もう少し挑戦してもよかったかなと、今では思いますから残念なことをしました。
今なら美味しく食べられるかもしれません。
「レイクサイド」と呼ばれる安宿街に宿を取りました。
Nさんとは食事の後お別れし、4人は「レイクサイド」と呼ばれる安宿街に向かい宿泊場所を確保しました。
ポエンコック湖の湖畔にある一画でしたが、周辺は薄汚く荒んだ感じのスラム街でしたので、もし一人だと足がすくむような場所だったと思います。
湖畔といえば聞こえがいいかもしれませんが、綺麗な湖でなく澱んで臭いもするような所で蚊がいっぱいて、蚊にかなり刺されたことで後に「ヒヤッと」する出来事になるのです。
宿には何故かビリヤード台があり、私達も少し遊びましたが、大半の時間はアフリカ系と思われる黒人のグループが遊んでいました。
現在は開発が進み当時のバックパッカーに「レイクサイド」と呼ばれていた場所は、完全に過去のものになってしまったようです。
「トゥール・スレン」虐殺博物館と「キリングフィールド」
恥ずかしいことに私は「カンボジア」に行くまでに「カンボジア」の歴史は一切知らなかったのです。
それまで「アンコール・ワット」がある国ということぐらいの知識しかありませんでしたが、「プノンペン」で「ポル・ポト」のことを知ることになり、言葉を無くしました。
ポル・ポト
4年間で800万人の国民のうち約170万人から約300万人ともいわれるカンボジア人を大量虐殺した史上最悪の独裁者「ポル・ポト」
カンボジア共産党の独裁者「ポル・ポト」のような者がどうして現れるのだろうか?考えるのも嫌になります。
自己保身のために反乱分子となりうる知識層の人々は徹底的に殺し、メガネをかけているだけでも殺されたそうです。老若男女、赤子までも。
後に「ポル・ポト」は追い込まれて行きますが、その内戦の際に「ポル・ポト派」は地雷を多く使用したので、カンボジアには大きな「地雷問題」が残ったのです。
テレビのニュースで「地雷問題」のことを何となく聞いたことがあるような場所に、今自分がいるということを現地で知るという脳天気さで、よく日本に生きて帰ってこれたなぁという感じです。
当時は「アンコール・ワット遺跡群」の中にも「地雷撤去」が完全に終わっていない場所には行けませんでした。
確か状況を把握しているガイドと一緒でなければ、観光するのも危険ということでした。
「地雷問題」についてはこちらが参考になります。
トゥール・スレン虐殺博物館
古くなったコンクリートに風化の色が見える、廃校や廃病院といった感じの建物の中には、狭い独房や拷問に使われた器具など息が詰まる光景しかありませんでした。
そのような歴史を知ることが出来る機会でしたが、戦争関係の博物館などが必要のない地球にならなければ、悲劇の繰り返しになりかねないと思いますが…、しかし知ることから始まるので知るのも大切なことですね。
キリングフィールド
虐殺の地「キリングフィールド」には慰霊塔がありました。
その中には「ポル・ポト派」の虐殺で命を失った人々の、「しゃれこうべ」がたくさん積まれるようにして慰霊の意味で展示されていましたが、限度を超えた情景の前では思考も停止してしまい、ただ茫然となるしかなかったと思います。
一緒に行った全員がしばらく言葉を交わすことがなく、後からも話題に上がることはありませんでした。
それぞれの胸の内で、それぞれが自分なりに思いを交錯させていたのだと思います。
当時はまだ内戦の爪痕が色濃く残っているカンボジアの内情でした。
HanaAkari