- レー〈Leh〉
韓国人のSと共に〈マナリー〉に向かいました。 - マナリー〈Manali〉
一泊してすぐに〈デリー〉を目指しました。 - デリー〈Delhi〉
Sは旅行日程にあまり余裕が無かったので、急ぎ〈アーグラ〉経由で、〈バラナシ〉へ。
- アーグラ〈Agra〉
Sは〈アーグラ〉を旅の予定に入れていませんでしたが、私が〈タージ・マハル〉を見ないのはもったいないと強く薦めたことで、立ち寄りました。私は二度目の〈タージ・マハル〉でしたが、あれは何度見ても価値のあるものだと思います。 - ベナレス〈Benares〉
〈バラナシ〉滞在には時間をとって過ごす方が、あの町の魅力を堪能できると思います。Sはそれは分かっていたので、帰国までできる限りここでの滞在に日数を割きました。旅は道連れで、もう十分にインドを満喫していた私はSとのコミュニケーションが新鮮でした。 - デリー〈Delhi〉
韓国人Sが帰国するフライト日の二日前〈デリー〉に戻りました。私も帰国の為の飛行機のチケットを購入する必要がありました。
このブログは私がバックパッカーとして、1997年9月20日出国~1999年11月16日に帰国するまでの間に訪れた場所を、四半世紀後の私が思い返してみたら、一体何が出てくるのだろうか?という好奇心から古い記憶を辿り、出てきたものを書いてみることを試みたものです。
【パハールガンジとコリアン】出会い別れ|旅の玉手箱 インド編-34
【パハールガンジとコリアン】
〈デリー〉は交通の要衝になる場所ですから、何度も立ち寄りました。
日数も合計したらかなりのものになると思います。
そのほとんどを〈パハールガンジ〉という地区にある安宿に滞在しました。
〈パハールガンジ〉はバックパッカーには〈ニューデリー駅〉のすぐ近くという便利な立地にある、〈デリー〉の安宿街という認識でしたが、元々は地元の人々の商店街のような場所で、そこに外国人向けの安宿を経営するところが点在するようになったようでした。
ですから、インドの人々の生活の一部に外国人旅行者が混ざっているといった具合で、タイの〈カオサンロード〉のように、ほぼ外国人旅行者の為の通りといった風ではありませんでした。
野良牛が闊歩するインドらしい雑踏風景でした。
〈レー〉で知り合った韓国人男性Sと共に、〈マナリー〉経由で〈デリー〉へ、一泊して〈アーグラ〉へ「タージ・マハル」観光に寄り、そして〈バラナシ〉へと。
Sが帰国するぎりぎりまで、しばらく〈バラナシ〉に滞在して、〈デリー〉に戻りました。
Sは帰国の為、私もインドの観光ビザの有効期限が切れる直前までインドに滞在したら帰国すると決めていましたので、日本への飛行機のチケットを購入する為でした。
韓国人Sとの会話から日本人と韓国人との決定的な違いを知りました。
韓国人の男性には徴兵の義務があり、当時のSのように徴兵を終えていない韓国人男性は、一年間しか有効期間がないパスポートしか発行してもらえず、さらにその一年間に最大1ヵ月の期間しか外国に滞在することが出来ないという規則がありました。
徴兵を終えた男性と女性には適用されない規則だと教えてもらいました。
日本人の私には徴兵制度はイメージしづらいですが、それは大きな違いであるのは確かだと思います。
あの時のSはまだ年齢も若く、徴兵年齢の上限までまだ数年は残っていたのですが、それから年数が過ぎて行き、徴兵へのタイムリミットが迫ってくると、非常に悩むようになりました。
Sは非常に稀有な性格で、大半のコリアン男性が徴兵に行くのは嫌だと思っていても仕方なく従い、早く終わらせようと考える傾向が強い中で、彼は絶対に嫌だという気持ちと、世のしきたりに対する沈黙の怒りが煮えたぎっているようなところがありました。
「自由」の為に戦う孤高のファイターのようでした。
〈パハールガンジ〉で、ラダック〈レー〉で知り合ったコリアン女性Nと再会しました。
Sと共に〈デリー〉へ戻った時に、コリアン女性Nと〈パハールガンジ〉の安宿で再会しました。
Nとは〈レー〉に滞在中にSに誘われて行った、コリアンの飲み会で知り合ったのが初めです。
私が〈パハールガンジ〉でいつも利用していた安宿は、韓国人も多く利用していました。
Sが帰国した後、私はよくNとつるむようになりました。
N絡みから、新たに新しい韓国人旅行者とも知り会うことになります。
アニメおたくの韓国人女性は、私には自称〈エヴァ〉と名乗っていました。
〈エヴァンゲリオン〉のファンとのことでした。
一人の男性は映画「マトリックス」に感化されていて、キアヌ・リーヴス演じる「ネオ」が拳銃の玉を、スローモーションのエビぞりで躱すシーンを模倣するのがお気に入りでした。
Nに紹介されたコリアンのお爺さんは、かつて日本語教育を受けた方でした。
ある日、Nに誘われて別の宿にコリアンの高齢の男性が滞在する部屋に遊びに行きました。
私が非常に驚いたのは、その方は日本語が流暢に話せて、日本文学の本を読んでいたことです。
まず高齢でバックパッカーとして一人でインドに来ているのも驚きだったのですが、一切訛りがない日本語を話し、難しい漢字の多い文芸書を普通に読むのですから面食らいました。
その背景には「大東亜戦争」の頃、日本で教育を受けたということがあり、歴史の知識に乏しかった私は、漠然とあまり触れたくないように感じたものです。
非常に温和で人としての器の大きさが雰囲気から察することができました。
後に韓国に遊びに行った際には家に泊めて頂き、ぶしつけな質問もさせて頂きました。
「戦争のことで日本のことを怨んでいませんか?」
にっこり微笑んで「いいえ」と答えられました。
HanaAkari