まさに「光陰やの如し」という言葉のように、月日の過ぎ去るのは矢のように速く、放たれた矢はブーメランのように戻ってくることはないので、過ぎし時間は戻りません。
私が真っ先に「光陰矢の如し」からイメージするのは「後ろ髪を引かれる」ことのようです。
このブログは言葉から連想したことを自由に書いています。時に勇気や喜びをもらえたり、慰められたり、癒されたり、言葉には力があるように思います。そんな素敵さや楽しさを少しでも表現できたら幸いです。
【光陰矢の如し】過ぎ去る時間に後ろ髪を引かれる|言葉の小槌110
【光陰矢の如し】
年齢を重ねると月日の流れが速くなってきているように思います。
まさに「光陰やの如し」という言葉のように、月日の過ぎ去るのは矢のように速く、放たれた矢はブーメランのように戻ってくることはないので、過ぎし時間は戻りません。
子供時代よりも大人になってからの方が月日の経過が早く感じるのには、心理学では印象に残る出来事が多い程、時間は長く感じる傾向があるからだそうです。
子供にとっては、ささいな事でも目新しく新鮮で印象に残りやすいものが、大人になるにつれ経験からの慣れで、印象に残ることが少なくなってしまうことが、大人が時の経過を早く感じる要因のようです。
それは日々の生活が惰性になってしまっているということを、教えられているようです。
心理学を逆手に取るとすれば、何か新しい事に常にチャレンジしていけば、何歳になっても子供時代のような時間感覚の中に生きられるともいえそうですので、活路はありそうで何よりです。
自分自身を振り返ってみても確かに歳を取る程に、本当に守るべきもの以外のことに対しても、頑なに固持してしまい、意識せずに守りに入ってしまっている場合が多いように思います。
また時間の経過に対しての「未練」も大きくなってきているようにも感じます。
私が真っ先に「光陰矢の如し」からイメージするのは「後ろ髪を引かれる」ことのようです。
「後ろ髪を引かれる」思いは、時間に対しての「時には…」という未完の願望か⁉
過ぎ去りし事に未練タラタラと過ごすことは、自分が望んでいる心のあり方ではないですが、やっぱり後ろ髪を引かれるような事はあるようです。
時間ばっかりが過ぎて行き、必要だからと日々の生活を何となくこなしていると、自分の理想は何処かへと忘れがちになり、気が付けば、後ろ髪を引かれている自分がいる。
「光陰矢の如し」なので、今という時間を大切に、そして有効に使って、戻ることのない時間を憂うことのないように生きることができれば、さぞかし有意義なことでしょう。
「時には…一緒に楽しみたい」
「時には…休みたい」
「時には…無茶もしたい」
「時には…」から始まることは、成就できていない願望のようです。
「時には…時にはという願望を成就させ、未練のない毎日を送りたいものです」
HanaAkari