初めて耳にした頃は、これは日本語なのだろうかと疑ったくらいです。
「在り方」とは「物事のあるべき姿」という意味合いですが、ひねくれ者の私はあるべき姿とは何なのですか?という反抗心が先に起こってしまい、拒絶が先に立ちました。
このブログは言葉から連想したことを自由に書いています。時に勇気や喜びをもらえたり、慰められたり、癒されたり、言葉には力があるように思います。そんな素敵さや楽しさを少しでも表現できたら幸いです。
【在り方】大嫌いでしたが、多分理解できました。|言葉の小槌153
【在り方】
私はこの言葉は嫌いでした。
初めて耳にした頃は、これは日本語なのだろうかと疑ったくらいです。
「在り方がなってない」と言われる度に嫌悪感に襲われたものでした。
「在り方」とは「物事のあるべき姿」という意味合いですが、ひねくれ者の私はあるべき姿とは何なのですか?という反抗心が先に起こってしまい、拒絶が先に起こりました。
そのようなものですから「その在り方はなんだ!」という流れになって、なおさら毛嫌いしてしまうのでした。
いつしか「在り方」という響きに慣れ、少しは言葉の意味を解釈できるようになってきて、自分の口から「在り方」というフレーズが飛び出してしまう時は、我ながらこそばいものです。
人は勝手なもので、苦手で気色悪さはあるものの、会話の流れの中で堂々と「在り方」という発言をしている時には、「私のその在り方は一体何なんだと?」と自分にツッコみたくなります。
ただ「在り方」とは、人として大切なことだと置き換えて考えてみますと意外と腑に落ちますが、「あるべき姿」と言われれば、好きになれないのは「在り方がなっていない」のでしょうね、きっと。
「在り方」の大きなことは分かりませんが、身近なことに照らしてみると分りやすいかもしれません。
政治の在り方、国の在り方、人としての在り方となれば、大きなテーマになってアレルギー反応が出てしまう私ですが、身近な出来事を例にすると「在り方」も少しは腑に落ちます。
「何食べたい?」
「何でもいいよ」
「じゃ、中華料理で」
「中華料理はちょっと嫌かな」
こんなやり取りは経験がある方は多いと思いますが、こんな時はその「在り方」はなしでしょ!
HanaAkari