「軌道修正をしろ」「諦めるな」「焦るな」と弱気な自分に言い聞かせる為に思い出され、針のとんだレコードのように何度も繰り返してきました。
私のこれまでの経験では「己を信じれる己になれ」で復活できるのは「自分を信じて自らの意志で行動した場合」に限ります。
このブログは言葉から連想したことを自由に書いています。時に勇気や喜びをもらえたり、慰められたり、癒されたり、言葉には力があるように思います。そんな素敵さや楽しさを少しでも表現できたら幸いです。
【己を信じれる己になれ】自分を信じる勇気を教わる|言葉の小槌60
【己を信じれる己になれ】
「己を信じれる己になれ」
インド滞在中にお世話になったお寺の「お上人」から教わったお言葉です。
その時に何度も聞かされた格言ですが、最近急に思い出され心の内でリフレインしています。
今だとその言葉の意味することの大切さと、真理を簡潔に表現していることは分かるように思いますし、そうでありたいと努力をしています。
最近「己を信じれる己になれ」がリフレインされるのは、自分にブレが出てきたのか?弱気になったからだと思うのです。
「軌道修正をしろ」「諦めるな」「焦るな」と弱気な自分に言い聞かせる為に思い出され、針のとんだレコードのように何度も繰り返してきました。
私は自分自身をやっかいな生き物だと解釈しています。
自分の目指すことに向かって進まなければ、悶々とした気持ちに苛まれ心に倦怠感を感じるくせに、いざ目指す方向に向かって進んだはいいけど、上手く事が運ばなければすぐに諦めそうになる、非常に身勝手な奴だと思うのです。
そんな「質の悪い奴」が近頃また「弱虫」になりそうだったから、「質の悪い奴」の中にいる「質の良い小人」が私の記憶を操作して「己を信じれる己になれ」を思い出させたのでしょう、しかもリピート設定で。
おかげで「質の悪い奴」は呆れて退散したようです。
私のこれまでの経験では「己を信じれる己になれ」で復活できるのは「自分を信じて自らの意志で行動した場合」に限ります。
自分で決めたつもりでもどっか人任せであったり、依存して行動した場合には軌道修正が上手くいかないことが殆どです。
「己を信じれていない己」がした選択には覚悟を持てませんから、当然なのだと思いますので、真の意味で「己を信じれる己になる」ことが大切なんだと思います。
しかしながらこれまでに多過ぎる失敗を繰り返してきた私には、そのようなカッコイイ生き方が常に正しいとは限らないように感じています。
どんな生き方であれ、それぞれが責任を持っていれば問題が無いですし、責任が持てなければ「望まない」ことでバランスが取れると思います。
多くを望まなければ強い意志は必要がありませんので、肩の荷は軽くて済むように思います。
私は不幸せとは思っていませんでしたが、しばらく「望まない」スタイルで過ごしていたのを、このところ「望む」スタイルに切り替えましたので、いい加減なものです。
結局は今の自分が「どっちを好むのか」ということだと思いました。
「己を信じれる己になれ」を選んだのなら、弱音は吐いていられないので、肩の荷が少々重くなるのも仕方なしですね。
HanaAkari