インドの「ヒンドゥー教」と日本の「神道」はよく似ているように思っています。
ヒンドゥー教の神と神道の神の共通点は、自然現象が神の姿になっているところと、非常に「人間臭い」ところなのかなと思います。
このブログは言葉から連想したことを自由に書いています。時に勇気や喜びをもらえたり、慰められたり、癒されたり、言葉には力があるように思います。そんな素敵さや楽しさを少しでも表現できたら幸いです。
【ヒンドゥー教と神道の神話】類似する残酷な物語|言葉の小槌84
【ヒンドゥー教と神道の神話】
私はインドの「ヒンドゥー教」と日本の「神道」はよく似ているように思っています。
まず、共に2つの宗教は他の宗教のように開祖がおらず、多くの様々な神様がいて、「八百万の神」がいるところが共通しています。
また、身を清める際に川に入り、水で洗い清める風習も同じです。
インドでは聖なる河「ガンガー(ガンジス河)」で沐浴すれば、それまでの罪、穢れが一切が洗われるといわれ、神道でも同じように川の水で、穢れを洗い流す「禊(みそぎ)」という行為があります。
私は通った高校が「神道」の学校でしたので、学習の一環として伊勢神宮の前を流れる「五十鈴川(いすずがわ)」に入り「禊」を行ったことがありますが、川は違ってもやっていることは同じですので、そっくりです。
「ガンジス河」にも入ったことがありますから、罪穢れなど綺麗にすっきりと無くなっていてもいいように思うのですが、私の場合は毎日入らないといけないような感じですね(笑)
インドの8割の人は「ヒンドゥー教」を信仰していますが、現在の「ヒンドゥー教」は大昔からの「バラモン教」の流れに、土着の信仰や神が融合することで、柔軟に変化し継承されています。
「神道」も仏教や外国の神様、それこそインドの神様とも融合していますので、土着の民俗宗教という観点からも2つの宗教の類似を感じます。
そんな2つの宗教の類似から想像が広がり、それぞれの「神話」にも類似点があることに気が付きました。
もちろん完全な空想です。
ガンガーについては「言葉の小槌73 川の女神」に私見を書いていますので、よろしければそちらも読んでみて下さい。
「シヴァ」と「伊弉諾尊(イザナギノミコト)」との類似点
インドで絶大な人気を誇る破壊神「シヴァ」と、日本の国生みの神「伊弉諾尊」には似ている神話があります。
「乳海攪拌」神話と「国生み」神話
「ヒンドゥー教」では「シヴァ」や他の神々と、悪神アスラたちが、1000年間、乳海(海)をかき回した際に、太陽や月、神々、精霊などが現れたという物語があります。
これを「乳海攪拌」といい「アンコール・ワット」の壁画にも描かれています。
攪拌は大きな山を攪拌棒として海に入れ、その山に竜王(ナーガラージャ)を巻き付けて、「シヴァ」などの神々と悪神アスラたちが、大蛇を交互に引っ張り合うことで攪拌棒である山を回して行われたようです。
この物語は「神道」において「伊弉諾尊」と「伊邪那美命(イザナミノミコト)」が行った「国生み神話」に似ているなと思います。
「伊弉諾尊」「伊邪那美命」の二柱の神は天浮橋(あめのうきはし)の上から、天之瓊矛(あめのぬぼこ)で海を攪拌し、その矛の先から滴り落ちた潮が固まって「おのころ島」をまず最初に創ります。
それから二柱の神は、様々な神を生んでいくのですが、「乳海攪拌」と諸々の舞台設定は違っても創生の物語として、掻き混ぜることによって何かが生まれ出るところは同じです。
これが「シヴァ神」と「伊弉諾尊」の1つ目の類似点です。
象の頭を持つ「ガネーシャ」と火の神「加具土命(カグツチ)」の物語
商売や学問の神様として人気の「ガネーシャ」は「シヴァ」の子供ですが、「ガネーシャ」は「シヴァ」の妻である「パールヴァティー」が水浴をする際に、見張り役として作った子でした。
「パールヴァティー」は「ガネーシャ」に水浴中は、誰も中に入れないように申しつけてから入浴に入ります。
その時に夫である「シヴァ」が帰ってきてドアを開けようとしましたが、「ガネーシャ」は母の言いつけを守り、「シヴァ」の前に立ちふさがったので、怒った「シヴァ」に刀で首を切られてしまいます。
面識がなかったとはゆえ、自分の子であることを知った「シヴァ」は嘆き悲しむ「パールヴァティー」のために、通りっかった象の首を切り落とし、「ガネーシャ」の体とくっつけて「ガネーシャ」を生き返らせたのです。
一方、日本神話では「伊邪那美命」は、火の神である「加具土命」を生んだ時に、炎をまとって生まれてきた「加具土命」によって陰部に大やけどを負い、命を落としてしまいます。
激怒した夫の「伊弉諾尊」は十拳剣(とつかのつるぎ)で「加具土命」の首を切り、殺してしまいます。
その時に「加具土命」から噴出した血から数多くの神が生まれます。
この2つの神話は父親に首をはねられてしまう、子供の神様という点が同じです。
「シヴァ」と「伊弉諾尊」の共通点です。
「ガネーシャ」は象の頭になり生き延びますが、「加具土命」も見方によっては、血から数多の神々を生みますので、生き続けているともとれそうです。
「パールヴァティー」と「伊邪那美命」の類似点
「シヴァ」と「伊弉諾尊」の類似から「シヴァ」の妻である「パールヴァティー」と「伊弉諾尊」の妻である「伊邪那美命」との共通点はないのだろうか?と考えてみましたら、こちらにもありました。
「パールヴァティー」は多くの別名があり、穏やかな面と、恐ろしい面の二面性を持った女神です。
その中で破壊と殺戮の女神として、凶暴な「暗黒面」を持つ女神が、黒き女「カーリー」です。
この「暗黒面」が2人に共通しているところです。
殺戮の黒き女神「カーリー」の物語
「パールヴァティー」には「ドゥルガー」という戦いの女神の姿があります。
戦いの女神「ドゥルガー」が悪魔族(アスラ)との激しい戦いの最中に、怒りで額が真っ黒に染まるのですが、そこから「カーリー」が生まれ出るのです。
怒りを凝縮したような女神だと思えます。
悪魔族の「ラクタビージャ」には剣で切られても、血が大地に落ちると、そこから新たな「ラクタビージャ」が生まれるという再生能力がありました。
いくら切ってもそうやって再生するので、キリが無かったのですが、「ドゥルガー」と「カーリー」の連係で「ラクタビージャ」に勝利します。
「ドゥルガー」が剣で切り裂き、流れ出た血を「カーリー」が長い舌で受け止めて、口の中で再生した「ラクタビージャ」を嚙み殺すということを繰り返しました。
ついに「ラクタビーシャ」は出血多量で死んでしまいます。
その戦いに勝利した「カーリー」は高揚し踊り出しましたが、それで世界が壊れそうになったので、「シヴァ」が大地に横たわって、自分の腹を踏ませることで、衝撃を吸収することによってことなきを得ました。
「伊邪那美命」は「黄泉の国」の神になりました
「加具土命」を生んだ後、「黄泉の国」へと行ってしまった「伊邪那美命」に「伊弉諾尊」は会いにいきます。
「還ってきて貰いたい」と告げる「伊弉諾尊」に「黄泉の国の食べ物を食べてしまったので、もう黄泉の国の者になった私は還ることはできません」と「伊邪那美命」は答えますが、「しかし、還りたいので黄泉の神と相談してみますので、その間は絶対に私の姿は見ないで下さい」と殿の中に入ります。
「伊弉諾尊」は長い間待ちましたが、ついに待ちくたびれて覗きに入ってしまいました。
そこで「伊弉諾尊」が見たものは腐敗して蛆がたかり、雷神がまとわりついた変り果てた「伊邪那美命」の姿でした。
「伊弉諾尊」は恐ろしくなって逃げだし、「伊邪那美命」は怒って、黄泉の国の者たちと一緒に「伊弉諾尊」を追いかけますが、何とか逃げ切った「伊弉諾尊」は「黄泉の国」との境を大きな岩でふさいでしまいます。
すると「伊邪那美命」は「あなたがそのようなことをするのなら、私はあなたの国の人々を一日千人殺します」と呪いの言葉を吐き出します。
それに対して「伊弉諾尊」は「あなたがそうするのならば、私は一日に千五百人を生もう」と返します。
そうして「伊邪那美命」は死者の国の主宰神「黄泉津大神(よもつおおかみ)」になりました。
「ヒンドゥー教」と「神道」の神話の共通点は「人間臭さ」かもしれません
これらの物語を読んでいると、この神様たちは本当に神様なのだろうか?と疑いたくなってしまいます(笑)
あまりに「人間臭く」て、もしかしたらそれは人間以上のようにも思えます。
「シヴァ」と「伊弉諾尊」の短気で身勝手なところや、「カーリー」と「伊邪那美命」の愛の裏返しからの、残忍な暗黒面は、人の心を分かりやすく表現しているようです。
ヒンドゥー教の神と神道の神の共通点は、自然現象が神の姿になっているところと、非常に「人間臭い」ところなのかなと思います。
HanaAkari