人の「弔い方」の風習は世界様々で、民族の特性や文化や風土の影響が色濃く出る部分だと思います。
水葬のように川に流せば、大海原に還りますし、土葬にしても大地に還り、鳥葬では空に還ります。
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【弔い方】世界の文化、宗教観の違いで様々です。|言葉の小槌91
【弔い方】
人の「弔い方」の風習は世界様々で、民族の特性や文化や風土の影響が色濃く出る部分だと思います。
日本だと「火葬」してお墓に入れるのが一般的ですし、最近だと「樹木葬」というのも注目されています。
他にも世界では「土葬」「水葬」「鳥葬」「ミイラ」などもありますが、宗教観の違いが大きいとは思いますが、「鳥葬」なんかは風土が関係しているようにも思います。
どれも送る側の「心」が一番大切だと感じますが、形式の部分を見るとお墓を作るか、作らないかの二つに分かれているようです。
価値観の違いですので、どれが良いとか、悪いとかはないのですが、私は日本という東洋の国に生まれたので、「東洋思想」の流れや「アニミズム」のような自然崇拝的な感覚が好みです。
ですから、お墓に埋葬するよりは、遺骨は大海原に流すとか、大地に還るような発想の方が自然でいいように感じています。
そういった意味で「樹木葬」は大地に還って、新たに緑を育てるようなイメージですので、素敵な弔い方だと思います。

ただ、リクエストがあるとしたら、埋葬場所は町の中に作って欲しいように思います。
「樹木葬」といいながら、大抵は山を切り開いて墓地にするので、わざわざ自然破壊はせずに、町の中にある空き地や、工場跡のような場所を整備して「樹木葬」の墓地にすれば、都市の緑化にもなり、これまでの墓地のように近寄りがたい雰囲気になることもなく、お墓参りにも近くて気軽に行けるようになるのではないでしょうか?
私は都市に住んでいるので、このように考えてしまうのですが、都市近郊の山をわざわざ開拓するよりも、都市の緑化にもなって、一石二鳥のように思うのですがどうですか?
都会のオアシスとして人々の憩いの場としても、愛されるような場所になれば素敵です。
桜の木が一面に広がった緑地があれば、春にはお花見を楽しめますし、心が嬉しくなります。
もちろん落葉樹だけだと冬の景色が寂しくなりますので、常緑樹と上手に配置して頂けたらと、勝手なことを想像しています。
「弔いの形」様々。
アフリカのある部族では、死者は「畑」に土葬するということを聞いたことがあるのですが、まさに「土に還る」そのものです。
その土地は雨季と乾季が分かれている乾燥地帯ですから、日本のように一年中、緑豊かなに木々が育つ場所ではないので、「火葬」にするにも薪が十分に手に入らないでしょうから、とても理に適った弔い方法だと思いました。
土に還って、新しく植物を育てる糧になり、植物は人々に恵みをもたらす、自然の循環があるように思え、本当の意味での「樹木葬」のような気がします。

土葬
日本でも昔は「土葬」が主流だったようですが、それには「土に還る」という思想があったからだでしょうか?
世界的で「土葬」を行っているところは、宗教的な理由から行われているようです。
キリスト教、イスラム教、儒教などは「土葬」が行われることが多いみたいですが、後から色々と宗教に結び付けた考え方はあっても、大昔でしたら「土葬」にするのがごく自然な流れだったのではないでしょうか?
ミイラ
人の想念が強く表れた弔い方法には、「ミイラ」がありますが、いつか復活するという甦りの思想による行為のようです。
必ず甦ると信じていたのか?残された人の「甦って欲しい」という、強い想いが形になったのか?いずれにしても人の想念が色濃く表れているように思います。
キリスト教で「火葬」よりも「土葬」が好まれるのは、イエス・キリストが復活した伝説により、「復活」の考え方があるからのようです。

鳥葬(ちょうそう)
現在でもチベットでは「鳥葬」が行われているそうです。
遺体はハゲワシに食べられて、自然に返るという考え方があり、「命の還元」が行われます。
チベット仏教では「輪廻転生」の考え方が普通ですので、肉体は「魂の器」という観念から、魂が抜けた肉体にはこだわっていないのが特徴です。
風土的にも「火葬」を行うには十分な薪の確保が出来ませんし、土は冬には凍ってしまうような場所ですから、固くて「土葬」するにも穴を掘るのが大変なうえ、微生物によってなかなか分解されないなどの理由もあるみたいです。
ゾロアスター教徒(拝火教徒)も鳥葬を行います。
鳥になって天に帰っていくのでしょうか?
火葬
現在、日本では一般的ですが、「火葬」の観念は仏教によって日本にもたらされたようで、インドのヒンドゥー教徒も「火葬」を行いますので、ヒンドゥー教とも関りの深い仏教ですので、文化のつながりが面白いと思います。
世界的にも人口の増加や、埋葬場所の確保、衛生面などの問題で「火葬」の割合は増えているようですが、思想は様々で「火葬」に対しての拒否感が強い所もまだまだ多くあります。

水葬
インドのヒンドゥー教徒は基本的には「火葬」にした後、遺灰を川に流す習わしで、お墓を持ちません。
ただ例外があり、宗教上の理由から変死した人や子供、サドゥーという修行者は「火葬」されずに布で包まれて川に流されます。
ヒンドゥー教徒にとって聖なる川「ガンジス河」で、実際に死体が流れているのは見ました。
聖地とされるバラナシでは、ガート(沐浴場)と呼ばれる場所で、人々は川に入って沐浴をしている沖を、死体が流れていく様があり、それまであまり考えることのなかった「死生観」について、考えることになりました。
死体が流れている川で沐浴をしている人々を見ていると、疑問が湧いたので親しくなったインド人に聞いてみたことがあります。
「死体はこちらの岸に流れ着いたりしないのですか?」
沐浴している最中に死体が横に流れてきたら…と考えてしまったのです。
「水流の関係でこちら側にはこない」「流れ着いても必ず対岸に着く」「ワニに食べられるから心配ない」とのことでした。
どれ程の信憑性があるかは別としても、川幅もありますので、問題ないということなのかもしれませんが、「自然に還る」という意味では一番、割りきっているように思います。

「弔い方」には復活の考え方の違いが、大きく影響しているようです。
キリスト教などの復活の観念には、復活した時に肉体が無ければ困るといったような節を感じます。
ゾンビなどの発想にも影響しているようにも思い、西洋の映画やドラマは「ゾンビもの」が多いのも、「土葬」の文化が影響しているのでしょうか?
仏教やヒンドゥー教では、転生という形で復活してくるので、肉体の維持にはこだわっていないようです。
魂は天に還りまた戻ってきますし、肉体は役目を終えれば、自然に還ります。
水葬のように川に流せば、大海原に還りますし、土葬にしても大地に還り、鳥葬では空に還ります。
私はこの循環の流れの発想が素晴らしいと感じます。
HanaAkari