旅の玉手箱【キャンディ②】〈スリランカ編-8〉

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旅の玉手箱 〈スリランカ編〉 旅の玉手箱〈スリランカ編〉
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スリランカ国内での動き
  • ダンブッラ
    Dambulla
    〈シーギリヤ〉観光も終え、〈キャンディ〉に戻りました
  • キャンディ
    〈Kandy〉
    〈キャンディ〉は非常に居心地が良い落ち着く場所だったので、インドへのフライト予約がある日から逆算して、なるべくここで過ごしてから〈コロンボ〉に行くことにしました。
  • コロンボ
    〈Colombo〉

    インド〈チェンナイ〉へのフライトの少し前に戻ってきました。スリランカを旅行中に気になったことがあったので、日本大使館で聞いてみようと思い尋ねてみました。

  • スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ
    Sri Jayawardenepura Kotte〉

    スリランカの首都。首都移転計画によって1985年に〈コロンボ〉から遷都されました。再開発された新しい町でしが、町に人の活気はありませんでした。行政地区としてインフラ整備はされていても、人の動きが追い付いていないような印象でした。〈コロンボ〉から10キロ程離れた所ですから、日帰りで行きました。

このブログは私がバックパッカーとして、1997年9月20日出国~1999年11月16日に帰国するまでの間に訪れた場所を、四半世紀後の私が思い返してみたら、一体何が出てくるのだろうか?という好奇心から古い記憶を辿り、出てきたものを書いてみることを試みたものです。

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【キャンディ②】絶品家庭料理と紅茶|旅の玉手箱 スリランカ編-8

【キャンディ②

素晴らしかった〈ダンブッラ〉と〈シーギリヤ〉観光の余韻が冷めやらぬまま、〈キャンディ〉に戻ることにしました。

そこで、インド〈チェンナイ〉行きのフライト日まで、のんびりと過ごすことにしたのです。

〈キャンディ〉に初めて訪れた時に、たまたま宿を紹介するブローカーに連れられて行った所が、とても素晴らしく居心地の良い民泊のようなゲストハウスだったので、それを折り込んで再度、居心地の良い時間と空間を過ごさせてもらおうと思ったのです。

たぶん、自宅の空き部屋をゲストに提供してくれているようで、表立ってゲストハウスとして看板を掲げているような宿ではありませんでした。

物静かなご夫婦が住む、お家の一部屋をお借りする形でした。

朝食と夕食が付いていて、ここで頂いた食事は忘れることのできない程、美味しかったです。

スリランカの家庭料理だと思います。

スリランカ料理

外食で食べたもの全てがもの凄く辛く、スリランカ料理は私には少し危険なくらいに辛いものだと思っていたのですが、ここでそのイメージが完全に覆りました。

ご飯はサフランライスが定番のようで、ほんのりエスニックですが主張が強くなく、他の惣菜も辛くないのですが、香辛料がさり気なく香って、本当に美味しくて美味しくて、食事の時間が待ち遠しかったくらいです。

適度な広さの可愛いお庭から、奥さんが月桂樹の葉をちょんと摘んでいる光景などは羨ましくて憧れる光景でした。

ラブリーなお庭を眺める位置にあるちょっとしたテラスに、置かれている可愛いテーブルと椅子。

鳥

オーダーすれば紅茶を淹れてくれましたので、そこで時間が止まったかのように優雅に一人の時間を過ごしたり。

セイロンティーのおしいいこと…あれ程、紅茶が美味しいと感じたことは、それ以前から今に至ってもありません。

奥さんが料理が上手な方だったのかもしれません。

偶然にあちらと出会えたことは、間違いなく当たりくじを引かせてもらったようです。

紅茶

平和な時間に少し暗雲の兆しも、ラブリーな空間が自然と癒してくれました。

〈ダンブッラ〉から〈キャンディ〉に戻る日のことです。

スリランカで知り合ったアイルランド系イギリス人女性でフェミニストのCさんが、内戦の関係で行くことが出来なかった北部の地域へ周囲の助言を無視して強行して向かい、そして案の定、舞い戻ってきた日でもありました。

全員が道は封鎖されているから絶対に行くことはできないし、危険だから行きなさんなと言うのも聞かずに北へ向かったものの、当然のことですが通せんぼに遇ったそうです。

その日のバスで〈キャンディ〉へ戻る予定だった私は、たまたま行き先が同じということでドイツ人女性数人と一緒にバスに乗る予定でした。

そのタイミングでCさんが疲労困憊した顔で戻ってきて、何故か怒っているのです。

私はヨーロッパの国々の国民感情のことは殆んど知らなかったのですが、どうやらイギリス人とドイツ人の間には、お互いによく思わない風潮があるようでした。

もちろん全員がそういった感情を持っていることはないのでしょうが、互いに暗黙の負の感情があるみたいで、日本と韓国との関係に似ているようなきらいを感じました。

私はそんな事情のことなど知らず、ただ向かう方向が同じなのでドイツ人女性と一時旅を共にしただけなのですが、Cさんからはお門違いの反感を持たれたようでした。

恐ろしいことに次の日、一日遅れで〈キャンディ〉にやってきたCさんが、私が宿泊している隠れ家的な宿にチエックインしにやってきたのです。

以前に〈キャンディ〉の宿は最高だったことをCさんに話していたのが、災いになるやもしれない不穏な空気が流れました。

ちょうど二部屋、宿泊することができたのが笑ってしまいます。

私のささやかな優雅なひと時に終わりが告げられたようで、一瞬、「招かれざる客が来たもんだ」と勝手な気持ちも起こりました。

なぜならCさんはとにかく喋りまくるので、うるさいのです。

よくそれだけ喋れるもんだと感心するくらいでしたが、おそらく私がCさんが話す英語の半分ほどしか理解出来なかったのが良かったのかもしれません。

何か喋っている音がしてうるさいのは仕方がありませんが、内容が全部分からないから、まがいなりにも聞き役が務まったのでしょう。

個性が強く、強烈な感覚でまくしたてるから、まともに聞けていたら嫌になったと思います。

そんなCさんでしたが、ゲストハウスの居心地の良さ、食事の美味しさに機嫌が治ったのが幸いでした。

鬼をも黙らす素敵な空間でした。

リス

【人は憎しみによっては憎しみを越えられない。人は愛によってのみ憎しみを越えられる。 Hatred ceases not by hatred but by love】

私がスリランカに行った動機はインドの観光ビザを取得する為でした。

だたそれがスリランカという国のことを知るきっかけになり、スリランカの人々は非常に親日だということを肌で感じることとなりました。

スリランカに行けたことは、本当に私にとってはありがたいことでした。

【人は憎しみによっては憎しみを越えられない。人は愛によってのみ憎しみを越えられる。 Hatred ceases not by hatred but by love

この言葉を初めて知ったのはスリランカを旅行する際に携帯していた、ガイドブックの「地球の歩き方 スリランカ」からでした。

旅行のガイドブックですが、ガイド関係以外にも小話やちょっとしたエピソードが面白いので本を読む感覚で楽しめたのですが、その中に「人は憎しみによっては憎しみを越えられない。人は愛によってのみ憎しみを越えられる」この記事を読んだ時には自然と目に涙が滲んできて、なぜ今まで知らなかったのだろう、スリランカに来てこの事を知ることができたことは本当に幸いだなぁ、そのように感じたことが今でも記憶に残っています。

まさか旅行のガイドブックで泣くとは思いませんでした。

仏教 スリランカ

太平洋戦争の敗戦後、日本の今後についてどのようにするのか?が話し合われた「サンフランシスコ講和会議」の席で、セイロン(スリランカ)代表のジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ氏(後のスリランカ2代目大統領)の演説が日本の未来を救ってくれたという歴史を知りました。

もし彼のこの演説が無ければ日本は戦勝国側である米国、英国、中国、ソ連の四大国によって、本州、北海道、九州、四国と四つに分割統治されていたかもしれないというのです。

演説では戦争でセイロンが受けた損害に対して、セイロンは損害賠償を望まないと発言した後に、仏陀の教えである「人は憎しみによっては憎しみを越えられない。人は愛によってのみ憎しみを越えられる」この言葉へと続きます。

演説の後は万雷の拍手が鳴り止まなかったそうです。

そのような歴史的背景があり、日本はスリランカに対して出来る限りの経済援助を行ったのもあり、私は何もしていませんが日本の先人たちのお陰で、おもてなしを受けたように感じることになった程です。

改めて「サンフランシスコ講和会議」でジャヤワルダナ氏の発言の内容を噛みしめてみると、かつての日本人が毅然として精一杯生きていたのも分かりました。

HanaAkari

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