人生の痕跡の声に耳を傾けた人々の、それぞれの物語、インドがありました。
読書をしながらこれ程に、震える感覚を覚えた作品は珍しいものです。
世間には素晴らしい感動作品が数多くありますが、その内の一作品という範疇を超えた独特の感覚です。
「深い河」がインドのガンジス河のことであり、私がまだ若かった頃に実際に物語に登場する場所に訪れたことがあることが大きく影響しているのは確かだと思います。
想像力だけでは補えない実体験と結び付くことで、他の物語を読む時以上に本の中にのめり込んだのだと思います。
百聞は一見に如かずの言葉通り、インドのあの場所、固有名詞、風景すべてが手に取るように分かるので、物語の登場人物と一緒に行動をしているような感覚がありました。
この物語はインドへのツアー旅行で一緒になった、幾人かの人物のこれまでの人生模様とインドの場面が交錯するような形式で綴られていました。
人それぞれに他人には簡単に理解できない心の内を抱えながら、それぞれの人生があり、それがたまたまインドのガンジス河を舞台に混ざり合う。
母なる川〈ガンジス〉によって、清濁ともに抱擁される…そんな感じです。
それは最後の解説にあった遠藤氏の言葉の通りでした。
「ぼくらの人生をたった一度でも横切るものは、そこに消すことのできぬ痕跡を残す」
そして、
「神というものが本当にあるならば、神はそうした痕跡を通して、ぼくらに話かけるのか」
人生の痕跡の声に耳を傾けた人々の、それぞれの物語、インドがありました。
インド・ヒンドゥー教の聖地〈バラナシ〉・・・母なる〈ガンジス〉の畔の町
「深い河」の主な舞台は、インド・ヒンドゥー教の聖地〈バラナシ〉というガンジス河の沐浴風景で有名な町です。(物語では〈ヴァーラーナースィ〉と記載されていました)
この町はこの物語の中で臨場感のある素晴らしい表現で描写されていた通りの、独特な空気を持つ場所でした。
登場人物らの深い人生が溢れ出し交錯するのは、ごく自然なことなのだろうと思います。
浅い人生経験しかなかった私でも、そう感じることができた〈バラナシ〉です。
ここで死に、母なるガンジス河に流されることは、ヒンドゥー教徒にとって至上の恩寵ですから、有難い死に場所として人々は人生の最後にここにきます。
まさに清濁併せ吞む混沌があり、それらすべてを母なる〈ガンジス〉が次元を超えた先に流してしまうのです。
ガンジス河沿いには「ガート」と呼ばれる沐浴場があり、人々は川に浸かり、祈り、罪、穢れを聖なる〈ガンジス〉に委ねます。
「深い河」の中で登場人物が〈ガンジス河〉の畔で回想を巡らしたり、歌を歌ったりするのですが、初めは冷めた目で見ている人でも、〈バラナシ〉にはいつしかそのような感傷に耽ってしまう魔力があったように思います。
実際に私がインドで知り合った日本人旅行者に、ガートからガンジス河を眺めていたら空から声が聞こえてきて、マッサージ師になるように告げられたという人もいました。
なぜか義務教育の音楽で教わる縦笛を持参している人もいて、その人がよく吹いていた曲が、〈中島みゆき〉さんの〈時代〉でした。
「まわるまわるよ時代は回る 喜び悲しみくり返し…」
「まわるまわるよ時代は回る 別れと出遭いくり返し…」
あの場所にとても似合っていた曲でしたし、そのような気持ちになぜかなってしまうような場所です。
変な行動も変に思わない、すべて丸ごと包み込んでいるような不思議な〈バラナシ〉でした。
HanaAkari