このブログは私がバックパッカーとして、1997年9月20日出国~1999年11月16日に帰国するまでの間に訪れた場所を、四半世紀後の私が思い返してみたら、一体何が出てくるのだろうか?という好奇心から古い記憶を辿り、出てきたものを書いてみることを試みたものです。
【ハリジャン】ガンジーが神の子と称した不可触民|旅の玉手箱 インド雑学編-32
【ハリジャン】
インドでは〈ハリジャン〉=不可触民(アンタッチャブル)は、カースト制度からも除外される下賤の民のことをいいます。
触れるのもはばかる程に穢れた人々。
ヒンドゥー教の社会において、いわゆる汚れ仕事に従事することを定められた人々がいるということは、近代の日本人の感覚では理解しにくいですし、一般的には差別だと定義されることが多いと思います。
ただ、何もインドのことに限らず、世界中に当たり前のように存在する、もしくは存在していた、あえていえば、存在しているけれども目をつぶっていることです。
インドのヒンドゥー教の文化は、バラモン教の教えから「カースト」という制度にしました。
始まりは差別感を養う為に制度化されたのではなく、輪廻転生を前提にしているヒンドゥー教では、人はそれぞれ生まれた境遇の中で、精一杯それぞれの仕事を全うし良く生き、次の生に繋げるといった教えであったみたいです。
人として与えられた役割に尽くすというところには美しさを感じますが、時代と共に差別意識が増長し、現代のように教育が浸透してくると、初心のようにはいかなくなるのは当然なことだと思います。
無知の人が大半の時代とは違いますから。
そして、インド独立の父〈マハトマ・ガンジー〉は、不可触民のことを〈ハリジャン〉=〈神の子〉と表現し敬意を示したのでしょう。
本当は〈神の子〉というのも違う気がします。
初心は素晴らしくても、制度化されたものは時間の経過と共に、悪用されるのが人間社会には多いようで、不可触民はだんだんと虐げられてきたのだと思います。
せめてもの想いからガンジー氏は〈ハリジャン=神の子〉と呼んだのでしょう。
おそらくそれが解決策になるとは考えなかったでしょうが、何かしら〈マハトマ=偉大な魂〉は尊敬の念を伝えたかったのだと想像します。
本当は、不可触民だ、神の子だ、何々だと区別しないのがいいのではないでしょうか?
みんな不可触民ですし、みんな神の子という発想が綺麗ごとなのは重々承知の上でも、それ以外に何かあるのかな?
みんな不可触民みたいなものだと思います。だって人間は一人残らず「うんこ」や「おしっこ」の生産者ですから。
汚れ仕事を引き受けているから尊いとか、お金持ちだから偉いとか、支配者だから汚れ仕事はせず、奴隷にやらせようとか、全部ひっくるめておかしいと思います。
トイレ掃除を誰がするのかというよりも前に、人間すべからず「うんこ」「おしっこ」の生産者なのだから、トイレが汚いというのなら、日々せっせと真面目に「うんこ」を生産している人も汚いということになりますので、みんな汚いということになってしまいます。
そう考えれば「みんな不可触民」ですし、「神の子」だという発想は大事なんではないでしょうか?
「私は〈おしっこ〉だから〈うんこ〉よりもマシよ」
「何言ってんだ、〈うんこ〉よりも〈おしっこ〉の方が回数が多いじゃないか、汚くしている量は〈おしっこ〉の方が上だ」
こんな展開が区別をしだすと始まりそうで、恐ろしいです。
HanaAkari