- トリヴァンドラム〈Torivandrum〉
インド南インド〈ケーララ州、トリヴァンドラム〉から飛行機に乗り、〈スリランカ〉に飛びました。〈スリランカ〉で再び新しいインドの観光ビザを取得するのが大きな目的でした。 - コロンボ〈Colombo〉
当初〈スリランカ〉の玄関口で最大都市。以前は首都でしたが、新首都〈スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ〉に移転されてはいましたが、都市としては〈コロンボ〉が栄えていました。 - ゴール〈Galle〉
ヨーロッパの支配時代に建設された城塞都市。西洋の面影が強く歴史的背景は別として、お洒落な雰囲気がありました。旧市街と要塞は世界遺産です。
- ウェリガマ〈Weligam〉
砂浜が広がる海沿いの静かな町でした。〈リティパンナ(竹馬漁)〉と呼ばれる変わった伝統漁法が見たくて行きました。
- ハンバントタ〈Hambantota〉
ここでは出会いがありました。当時は特にこれといったものがある場所では無かったですが、のんびりとした気持ちの良い所でした。
このブログは私がバックパッカーとして、1997年9月20日出国~1999年11月16日に帰国するまでの間に訪れた場所を、四半世紀後の私が思い返してみたら、一体何が出てくるのだろうか?という好奇心から古い記憶を辿り、出てきたものを書いてみることを試みたものです。
【ハンバントタ】愛すべき人々に幸あれ|旅の玉手箱 スリランカ編-4
【ハンバントタ】
この町は素敵でした。
特に見どころがある訳でもなかったですが、なんなしに寄ってみたのです。
宿泊したゲストハウスの主人は人が良く、とても親切にして頂きました。
友人の家族を紹介され、その方のお家にもお邪魔させて頂きました。
一般庶民のお宅拝見でしたが、日本でも昭和の頃によく見かけたコンクリート造りの平長屋で、数件の家が繋がっている構造で、玄関の前には猫の額ほどの可愛いお庭があって、お隣とは塀で仕切られていました。
夜にはゲストハウスのガーデンで、オーナー家族とその友人家族とが集まってバーベキューパーティーを催してくれました。
唯一の宿泊客である私がゲストなのですが、とにかくスリランカでは日本人というだけで、贔屓目に見てもらえることが多かったです。
子供たちは、はしゃいで楽しかったですし、ロケーションも最高なので、本当に有難いことでしたが、たった一つだけ難がありました。
蚊に刺されまくることです。
しかも、私だけ。
スリランカの人が言うには、スリランカ人はパクチーを毎日食べているから、蚊に刺されないということで、本当に誰一人として蚊に刺されていないことに、あの時は恥ずかしながら理不尽だと思ったものです。
現在、〈ハンバントタ港〉は、スリランカの経済破綻という状況から、中国の企業に99年間リースされることになりましたが、中国による「債務の罠」と揶揄され、地政学の駆け引き、経済戦争だ、軍事的野望などと騒ぎ立てる前に、私はあの人の良い、素敵な方達が問題無く暮らせていれば幸いだと思います。
雇用が発生して、地元の方々にも恩恵が広がっていくように願います。
中国のやり方は、日本人の感覚からすると無責任で自己中心的に見受けられますので心配です。
【人は憎しみによっては憎しみを越えられない。人は愛によってのみ憎しみを越えられる。 Hatred ceases not by hatred but by love】
私がスリランカに行った動機はインドの観光ビザを取得する為でした。
だたそれがスリランカという国のことを知るきっかけになり、スリランカの人々は非常に親日だということを肌で感じることとなりました。
スリランカに行けたことは、本当に私にとってはありがたいことでした。
【人は憎しみによっては憎しみを越えられない。人は愛によってのみ憎しみを越えられる。 Hatred ceases not by hatred but by love】
この言葉を初めて知ったのはスリランカを旅行する際に携帯していた、ガイドブックの「地球の歩き方 スリランカ」からでした。
旅行のガイドブックですが、ガイド関係以外にも小話やちょっとしたエピソードが面白いので本を読む感覚で楽しめたのですが、その中に「人は憎しみによっては憎しみを越えられない。人は愛によってのみ憎しみを越えられる」この記事を読んだ時には自然と目に涙が滲んできて、なぜ今まで知らなかったのだろう、スリランカに来てこの事を知ることができたことは本当に幸いだなぁ、そのように感じたことが今でも記憶に残っています。
まさか旅行のガイドブックで泣くとは思いませんでした。
太平洋戦争の敗戦後、日本の今後についてどのようにするのか?が話し合われた「サンフランシスコ講和会議」の席で、セイロン(スリランカ)代表のジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ氏(後のスリランカ2代目大統領)の演説が日本の未来を救ってくれたという歴史を知りました。
もし彼のこの演説が無ければ日本は戦勝国側である米国、英国、中国、ソ連の四大国によって、本州、北海道、九州、四国と四つに分割統治されていたかもしれないというのです。
演説では戦争でセイロンが受けた損害に対して、セイロンは損害賠償を望まないと発言した後に、仏陀の教えである「人は憎しみによっては憎しみを越えられない。人は愛によってのみ憎しみを越えられる」この言葉へと続きます。
演説の後は万雷の拍手が鳴り止まなかったそうです。
そのような歴史的背景があり、日本はスリランカに対して出来る限りの経済援助を行ったのもあり、私は何もしていませんが日本の先人たちのお陰で、おもてなしを受けたように感じることになった程です。
改めて「サンフランシスコ講和会議」でジャヤワルダナ氏の発言の内容を噛みしめてみると、かつての日本人が毅然として精一杯生きていたのも分かりました。
HanaAkari