- メダン〈Medan〉
前日の強行移動の疲れを癒す間もなく、一晩寝た後に、ニアス島へ向けさらなる過酷な移動をしました。
- ニアス島〈Nias Island〉
〈スマトラ島〉西側にある島〈ニアス島〉には夜行のフェリーに乗って行きました。〈メダン〉から〈シボルガ〉という港町まで行き、その日の夜行のフェリーで〈ニアス島〉には翌日の朝に到着しました。 - ブキティンギ〈Bukittinggi〉
〈ニアス島〉から夜行フェリーにてスマトラ島に戻り、その日のうちに〈ブキティンギ〉の町まで行きました。 - ジャカルタ〈Jakarta〉
インドネシアの首都。〈スマトラ島〉の町と違い、〈ジャワ島〉に入り突然、大都会が出現したので衝撃は強かったです。その頃、インドネシアの経済が酷く荒れていて、通貨は暴落し、各地で暴動が起こっていたのですが、〈ジャカルタ〉でも日本人のビジネスマンが殺害される事件がありました。タイムリーで〈ジャカルタ〉に居たのですが、現地では平常通りの町の営みがあっただけで、特に緊張するような出来事には遭遇しませんでした。
このブログは私がバックパッカーとして、1997年9月20日出国~1999年11月16日に帰国するまでの間に訪れた場所を、四半世紀後の私が思い返してみたら、一体何が出てくるのだろうか?という好奇心から古い記憶を辿り、出てきたものを書いてみることを試みたものです。
【ブキティンギ】ノリノリで赤道に|旅の玉手箱 インドネシア編-3
【ブキティンギ】
しばらくニアス島でゆっくりとしたので、一旦それまでの疲れは癒され、ジャカルタのあるジャワ島に向けて旅をする為の計画を考えました。
ニアス島から一気にジャカルタまで行くのは、地道を行く旅では不可能でしたので、一度どこかの町を中継し、宿泊する必要がありました。
そこで向かう方面にあったのが「ブキティンギ」の町でした。
ニアス島より再度、夜行フェリーでスマトラ島に戻り、その日のうちにブキティンギまで行きました。
交通手段はローカルバスか、小さめの乗り合いバスかのどちらかなのは間違いないのですが、はっきりとした記憶がありません。
さらにブキティンギに宿泊したのは、ぼんやりとした記憶があるのですが、どんな町だったか等の記憶は一切思い出せないです。
一泊してジャカルタに向けて通り過ぎたからだと思います。
記念すべきは「赤道」の真上に立てたことです。
ブキティンギの町のことは全く憶えていないのですが、ブキティンギからジャカルタに向けての道中のことはよく憶えています。
ジャカルタに向けてのバスは小型のバスでした。
旅行者を寄せ集めたチャーター便だったような?小型バスだったのは確かです。
当時のインドネシアの小型バスの特徴は、ディスコ系の音楽テープを大音量で流しながら、細い道を爆走するところです。
私も車は運転できますが、あんな道をあれだけのスピードを出して走ることは出来ないと思います。
あまり気にすると恐くなって、バスに乗っていられないくらいの、ノリノリの爆走ぶりでした。
途中で突然バスが停車した場所がありました。
「Equator」という表記がありましたが、英語力のない私には単語の意味が分かりませんでした。
しかし地面に線が引かれていて、そこで水を排水口に流す見世物があった際に、「赤道」だと推測できました。
そこは「赤道」の上でした。
今、地球の南北の境目、北半球と南半球の境界線「赤道」の真上に立っているのだと思うと少々嬉しかったです。
「赤道」では排水口に流れる水に渦が起こらないという、実験を見せてもらえました。
理科の時間に教わった排水の際に起こる渦は、北半球では半時計回りに発生して、南半球では時計回りになり、赤道上では渦は発生しないということを実際に見ることになりました。
渦の向きが北半球と南半球では逆になるという説は、今では信憑性がないようですが、赤道上での排水には確かに渦は巻いていなかったのは実際に目撃しました。
そのようなちょっとした観光時間も間に挟んで、ノリノリ音楽の小型バスはジャカルタを目指し、どんどん加速するのでした。
スマトラ島とジャワ島の間は、そのままバスごとフェリーに乗って海を渡りました。
夜も近くなってきた頃、突然高層ビルが見え始めて、それまでになかった都会の様相が現れたのには驚きました。
ジャカルタでした。
日本もそうですが、首都一点集中の発展ぶりはアジアのj国々では、よく目にした光景です。
HanaAkari