このブログは私がバックパッカーとして、1997年9月20日出国~1999年11月16日に帰国するまでの間に訪れた場所を、四半世紀後の私が思い返してみたら、一体何が出てくるのだろうか?という好奇心から古い記憶を辿り、出てきたものを書いてみることを試みたものです。
【待てど暮らせど…】汽車は来ず|旅の玉手箱 アクシデント編-10
【待てど暮らせど…】
冬の時期のインド北部は結構冷え込みました。
冷え込む時期に滞在させてもらっていた、仏教聖地〈サールナート〉の居心地の良さに根が生えてしまい、なかなか次に旅を進めることが出来なくなってしまいました。
しかし、冬の時期(2月頃)にインドの中のリトルチベット〈ラダック地方〉に絶対に行くという思いが、後ろ髪を引かれる私を〈サールナート〉から動かす動機になりました。
夏にラダック地方へ行ってから、どうしても冬にもう一度行ってみたいという気持ちが抑えられなくなってしまったのです。
〈サールナート〉の日本寺で宿泊させてもらい、精神世界を人生で初めて意識し始めた時でしたので、もう少しもう少しと思いながらも、ラダックへの気持ちは堅いものがありました。
その時、日本寺にはラダック人の一家族が宿泊していたのですが、過酷な冬のラダックから逃れて冬の時期をインド平野部で過ごしているとのことでした。
私が2月頃にラダック・レーに行こうと思っていると話すと、目を丸くして驚いていましたが、どうしてもゴンパ(僧院)でのお祭りが見たいんだと伝えると、「それはGood!」と太鼓判を押してくれました。
「寒いから、気を付けてね」なんてアドバイスを頂いたりしました。
重い腰を上げてまず〈デリー〉まで移動し、ラダック行きの飛行機のチケットを手配することにしました。
〈バラナシ〉の駅から〈デリー〉へ移動する日、寝台の夜行列車で移動するために、夕方頃駅に行きました。
しかし、搭乗予定の列車は一向にやって来なかったのです。
待てど暮らせども列車はこず、日は暮れてどんどん冷え込んできて濃い霧が発生しているので、視界も最悪でした。
列車の到着が1時間くらい遅れることはザラにあることでしたので、遅れて来ることは当たり前だと思えるようにはなっていたのですが、この時は事情がもっと深刻でした。
2時間、3時間、4時間、どれだけ待っても、列車は来ません。
駅員に尋ねても「来るか来ないかも分からない」という返事でした。
もうしばらく粘ってみましたが、最後は諦めて、〈サールナート〉の日本寺まで戻り、汽車が来なかったからと、もう一泊させてもらうことになりました。
まるで駆け込み寺に逃げ込むようでした。
列車はなぜ来ないか?推測ですが濃霧も影響しているのかもしれません。
〈サールナート〉から〈デリー〉に移動する時は、日本寺に戻ってその日の寝床を確保出来ましたが、また違う機会に同じようなことがありました。
その時は駅前にあったインド人向けの安宿に転びこむようにして、寝床を確保しました。
二回目の時も夜、濃霧が発生していて視界が凄く悪かったのですが、インドの冬の時期は昼夜の寒暖差が大きいので、霧は夜から朝にかけてよく発生していました。
おそらくこの霧が汽車の遅れの原因だったのではないかと推測しています。
あれ程に濃い霧だと視界が悪すぎますし、夜ともなれば尚更だと思いますので。
濃霧が原因で事故が起こったりとかもあるかもしれません。
それ程に濃い霧に包まれる冬の時期のインドの夜でした。
HanaAkari