私は「バベルの塔」の話は、言語の多様性についてのおとぎ話としては面白いと思いますが、少し疑問に思うことがあります。
たとえ言葉が通じなくても、それならどうするのか?どうできるのか?と考え、少しづつでも何かが出来たかもしれません。
このブログは言葉から連想したことを自由に書いています。時に勇気や喜びをもらえたり、慰められたり、癒されたり、言葉には力があるように思います。そんな素敵さや楽しさを少しでも表現できたら幸いです。
【バベルの塔】次こそは希望の塔が聳えるようになってほしい|言葉の小槌142
全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた…
主はそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。
「創世記」11章1-9節
バベルの塔の話は有名です。
キリスト教徒でなくてもこの物語のことは知っている人が多いと思います。
人々が協力し合い、天にも届く塔を建設するのを見た神は、人々が同じ言語を話すことで、共同作業を成していることに着目し、人々がお互いの言語が理解できないようにしてしまいます。
多種多様の言語が発生し、塔の建設は途中で放棄され、人々はそれぞれ言葉の分かる者同士で、各地へと散って行くというお話です。
素直に読み解けば創世記の話ということですので、世界にある様々な人種や言葉が生まれるきっかけとなった出来事であり、多種多様な言語がなぜ存在しているのかということの、おとぎ話のようです。
そして私の記憶にある話では、人は天まで届くバベルの塔を建設して、神と肩を並べようと傲慢な心を持ったために、神の雷によって塔は破壊され、お互いの言葉が理解できないようにされた、戒めのようなお話だったように思います。
私は「バベルの塔」の話は、言語の多様性についてのおとぎ話としては面白いと思いますが、少し疑問に思うことがあります。
同じ言語だったから協力し合って作業することができ、天にも届くような巨大な塔も建設することが可能だったのが、言葉が通じなくなっただけで、お互いが協力し合うのを止めてしまう程、人はつまらない存在だとは思えないのです。
そういった考えが傲慢だとされるのかもしれませんが、この物語には違った解釈があってもいいように思いました。
災厄にも負けず、希望を失わない人々の為の門出だったのではないでしょうか?
もし文字通りに神様が行った行為について考えてみると、ただの意地悪のように思えてしまいます。
神の領域にまで近づいてきた人間に嫉妬して、嫌がらせをしたようにもとれます。
もしそういう風に見てしまうと、人間は共に協力し合って作業が出来ていたものを、神はわざわざ反発し合うように仕向けたということになりそうで、何か怖いものを感じてしまいます。
多分そのようなものではなかったと思いますので、私なりに想像してみました。
人間は物質面では共同で大きな物事を成し遂げるにまで成長していたけれど、精神面ではまだまだ未熟だったので、神の雷によって崩壊するバベルの塔を目の当たりにした時、心が完全に折れてしまったのではないでしょうか?
本来ならばここからが本領発揮する時で、どれだけ挫けることがあったとしても、それでも協力し合って大きな物事を成し遂げる必要があったのかもしれません。
たとえ言葉が通じなくても、それならどうするのか?どうできるのか?と考え、少しづつでも何かが出来たかもしれません。
何もその時の人々のことを情けないとか、だらしないとか思っていません。
人はそういった弱さと常に向き合いながら生きているように思います。
おそらく人々が世界各地に散っていったのは、その次に再会する時には言語の違いも克服して、物質面だけでない、精神性の成長を伴って、次こそは「真のバベルの塔」を建てるのだという希望の旅立ちだったのではないかと思います。
「真のバベルの塔」は土台が命です。
土台が盤石でないと高い塔は崩れてしまいます。
ずっと昔から今もその土台作りに日々、人々は精進しているのだと信じたいものです。
それさえ出来れば、塔の部分はあっと言う間に仕上がってしまうのではないでしょうか?
なんとなくですが、近頃は土台作りを蔑ろにして、上部の構築に躍起になっているような傾向にあるようで気懸りです。
HanaAkari