父の弱り切った姿を見ました。
「満身創痍」でお労しい限りです。
このブログは言葉から連想したことを自由に書いています。時に勇気や喜びをもらえたり、慰められたり、癒されたり、言葉には力があるように思います。そんな素敵さや楽しさを少しでも表現できたら幸いです。
【満身創痍】お労しい姿に自問自答せざるを得ない|言葉の小槌157
【満身創痍】
父の弱り切った姿を見ました。
「満身創痍」でお労しい限りです。
父はこの十年ほどの間に、次から次に大きな病気を繰り返し、手術、薬物治療が当たり前のことのようになってしまいましたが、現役時代は風邪一つひくこともなく、エネルギッシュな偉丈夫だっただけに、人の手を借りなければ、日常のことすらも一人ではおぼつかない現状は、とても歯痒いのではないかと察します。
癌、潰瘍手術、脳梗塞、心筋梗塞と、流石の父も病の気配を拭い去ることは出来ず、絶対に聞くことが無かった弱音すら耳にすると、居た堪れない気持ちになります。
先行きが長くないことも自覚されてはいるものの、不安なのも伝わってきます。
私は、死後の世界はあると思っているのですが、例えそれが想像と違った形態だったとしても、「死」は終わりではなく、次への始まりなのだと考えます。
しかしながら、そんな私でも目の前で命の灯が残り少なくなっている様が見て取れる、父の姿を見ると肉体の「死」は本当の「死」ではないと、いくら自分に言い聞かせても、悲しみは消えてくれません。
私が心底、死後の世界を信じられていないのもあるでしょうが、私の父のように宗教やスピリチュアルに対して酷い偏見のある方にとっては、どのように自分の心と向き合っているのだろうかと心配です。
形あるもの、例えばお墓の建立やこれまでの形式ばった葬儀のようなこと、馴染みのある仏教のことには肯定的な面もありますが、あくまでも風習に則った儀礼でのことです。
それ以外の宗教、スピリチュアルなどには聞く耳を持たず門前払いですから、私が若い頃は意見の相違でよく衝突したものでした。
父に対していまさら、あれこれと私の持論を話すのも藪蛇というものですから、残された時間を出来る限り楽しんでもらえたら幸いです。
「その好きなことができひんねやぁ~」
脳梗塞で半身不随になってしまった父の嘆きです。
返答に困った私は、思わずアスペルガー発言をしてしまいました。
「ほんならリハビリするしかないなぁ」
我々親子の因縁は碌なもんじゃなさそうです。
「人生」は勉強で、「死」は解放とも言われますが…
父のことを知っている私には、父の身に起こっている事象が、父の気づきの為の「愛の鞭」なのではないかと感じています。
もちろん私を含め周囲の人へのメッセージでもあると思います。
ただ満身創痍の父にその役を課すのは、人の子の私には非常に酷なように思えてなりません。
頑固さやこだわりが詰まりになって体に現れているように思うのですが、それがどうにもならないからこうなってるのだろうし、その頑固、こだわりが父の取柄でもあったはずです。
ですから時に「人生は死ぬまで学習」などと聞くと、向かっ腹が立ちます。
生まれて来る前に今世の課題を決めて地上に降り、「死」の間際にはその課題を克服していれば幸いである。
確かにそのようなことがあるかもしれませんが、時々本当に途轍もなく辛いことがあったりすると、これは「悟る」しかないと考えたこともありました。
今では「悟り」とは、そんなものでもないと思いながらも、やるせない気持ちと向き合っています。
それが誰であれ痛みに苦悩する姿を目の当たりにすると、「今世の課題の合格点は100点満点でなくても構わないのでは?」「落第点すれすれでもクリアーはクリアーでしょ」などと、ああ言えばこう言いいながら自問自答を繰り返しています。
こんなことが出来るのは父と母がいてくれたからですから、たとえひねくれていても感謝の気持ちは忘れません。
HanaAkari