「座右の銘」は何ですか?と尋ねられたら今は「天は自ら助くる者を助く」と答えます。
「努力」といえば辛いイメージになりますが、単純に「行動」と表現すればしっくりくるように思います。
このブログは言葉から連想したことを自由に書いています。時に勇気や喜びをもらえたり、慰められたり、癒されたり、言葉には力があるように思います。そんな素敵さや楽しさを少しでも表現できたら幸いです。
【座右の銘 】好きな言葉で努力を諦めない行動へと|言葉の小槌37
【座右の銘】
「座右の銘」は何ですか?と尋ねられたら今は「天は自ら助くる者を助く」と答えます。
私がこの言葉を知るきっかけなったたのは、サミュエル・スマイルズ氏の「自助論」を読んだ時でした。
「神は自ら助くる者を助く」から始まる人生の指南書のようなものですが、スマイルズ氏は冒頭のこの言葉を伝えたいために書いた本ではないかと思っております。
私は「自ら努力することで自らが救われる」と解釈していますが、素直に解釈すれば「自ら努力することで神の救いが得られる」といった感じでしょうか?
もちろんそうであって欲しいとは思いますが、頭の「天」や「神」の部分は「X(エックス)」でも何でもいいのですが、まず自分が努力することが先決だと、自らを奮い立たせる意味で好きな言葉です。
「努力」すれば自ずと結果がついてくるといった当たり前のようなことが、私にとっては特別なのです。
自分のことを「怠け者の星の下」に生まれたのではないかと思っており、すぐ面倒になって諦めてしまう癖がありますので、当たり前のことを当たり前にできるようになるために「天は自ら助くる者を助く」を心に留めてはおりますが、「つい」ということがついついありますね。
戒めとしてタトゥーで体に刻んでみようかなんてそんな勇気はないですし、そもそも戒めといった発想が嫌いですので。
とはゆえ怠け者の私には辛いことですが、「天は自ら助くる者を助く」とは当然といえば当然のように思います。
自分は何もしないで「神様、どうかお助け下さい」といくらお願いしたとしても、神様はどうやって助けることができるのでしょうか?
もしお金が欲しかったら、働きに行くか、たとえがむしゃらに働かなくても、「宝くじ」を買うとかでも、まずこちらが何かをしないと神様も助けようがないように思うのですが、「宝くじ」を買うのも努力だと思います。
「努力」といえば辛いイメージになりますが、単純に「行動」と表現すればしっくりくるように思います。
宝くじを買うためにはまず働かないといけないですし、買うという「行動」があるわけですから神様に対して「ここですよぉ~、助けてくださ~い」と旗を立てることになるのではないのかな。
まず自らを助けるという行動が、神様から見ると「おっ、あそこに狼煙が上がったぞ!」「どれどれ、なかなか頑張っているじゃないか、ちょっと助けてあげようか」「あともう一押しだな、もう少し様子を見るか」といった具合になるのではないでしょうか?
今、宝くじを買いに行こうかと思案しております。
HanaAkari