- ホイアン〈Hoi An〉
居心地の良かった「ホイアン」を後にし、ビーチ「ニャチャン」に向かいました。
- ニャチャン〈Nha Trang〉
現在では、世界でも有数のビーチリゾートですが…
- ダラット〈Da Lat〉
高原の避暑地。私はここで大事件を起こしました。
- ホーチミン〈Ho Chi Minh〉
熱気と活気のベトナム最大都市。旧サイゴン〈Sai Gon〉
- モックバイ〈Moc Bai〉
ベトナムとカンボジアの国境
このブログは私がバックパッカーとして、1997年9月20日出国~1999年11月16日に帰国するまでの間に訪れた場所を、四半世紀後の私が思い返してみたら、一体何が出てくるのだろうか?という好奇心から古い記憶を辿り、出てきたものを書いてみることを試みたものです。
【モックバイ】カンボジアとの国境|旅の玉手箱 ベトナム編-10
【モックバイ】
「ホーチミン」滞在中に次に向かう「カンボジア」の為の準備として、「ビザ」の取得が必要でした。
「ホーチミン」で一緒に行動することが多かった、日本人のバックパッカーのほとんどが「カンボジア」に向かう予定だったので、共に「ビザ」を取得しに「カンボジア領事館」に行きました。
このような事務的な作業は面倒ですが、時々そういった事を経験するのも悪いことではなかったと思います。
ただ私は他の人と違い「ベトナム・ビザ」に少し問題があり、そこを解決しないと陸路で「カンボジア」には行けなかったので、その作業でほぼ一日潰れました。
当時「ベトナム・ビザ」は入国場所と出国場所を、「ビザ」取得の際に決めて申請する必要がありました。
私は「ベトナム・ビザ」を大阪のベトナム領事館で取ったのですが、その際に入国地点の「ラオカイ」はなんとかクリアーしたのですが、出国地点が分からず、多分ホーチミンの空港を仮地点として取得していたので、その変更をしないといけませんでした。
記憶が定かではありませんが、ホーチミン市内にある「イミグレーションオフィス」か「お役所的」な所でその手続きをしたのですが、当時の私にはそれが大変で、非常に苦戦しました。
まず私の英語力の問題がありましたし、「お役所」の中の人ごみとか、待ち時間の長さ、何度かたらい回しにあって、ようやくなんとかなりましたが、相当「ぐったり」ときました。
こういう「お役所」関係のことはどうしてどこもあんな感じなのでしょうか?ベトナムに限らず日本でも「イイーっ」てなることがあります。
「お役所」ならではの不親切の対応が、当時の私には腹が立ちましたが、実はあの程度のものはほんの序の口でした。
これより後に行ったインドで「待ち時間」「不愛想」に対しては、ついに「腹が立つ」ことを通り越し、開き直りの境地にまで到達しました。
日本でイライラしてしまうのは、「早くて親切で丁寧で当たり前」だと思っているからだと思うのですが、日本のそういった感覚の方が世界の中では特殊なのだと思います。
とはゆえインドで忍耐の修行を積むのはまだまだ先のことですので、当時の私にとってはベトナムは大きな試練でした。
旅は道連れでカンボジアとの国境の町「モックバイ」へ
「モックバイ」から「カンボジア」の首都「プノンペン」までは、「ニャチャン」で知り合ったDさん、Mさん、「ホイアン」で知り合い「ホーチミン」で再会した、ベテランバックパッカーのNさんと、友人と私の5人で一緒に行きました。
異国の地ではどうしても心の奥底に不安があるのか?同郷のよしみか?旅行者同士の連帯感は自然と強くなるような気がします。
「旅は道連れ…」なんていいますが、まさにそうでして、良い感覚だと思います。
「ホーチミン」ではこの5人で「DISCO」に行きましたが、これはNさんのベトナム在住の友人が連れていってくれました。
ベトナム人の奥さんを後ろに乗せて自分のバイクで「ファングーラオ通り」までやって来たNさんの友人の後を、私たちは「バイク・タクシー」で付いて行きました。
その「DISCO」では、外国人は私達以外は見かけなかったです。
映画「サタデーナイトフィーバー」のようなイメージの内装だったような?当時の日本に比べると古いタイプのデザインだと感じましたが、しょぼくはなかったです。
舞台の中心部では、背中で床の上をくるくる回る、「ブレイクダンス」を踊る若者たちが目立っていました。
それ以上に驚いたのはMさんでした。
「やばっ」「この人行ってんな」「結構やってんな」という衝撃の踊りを、イケてるベトナム人を凌駕するレベルで披露していました。
車を運転すると急に性格が変わる人みたいに、顔つきが普段とは完全に変わっていて、きっと性格も変わっているんだと思います。
真面目そうで、寡黙な感じだったので、人は見かけによらないと思ったのでした。
このようなメンバーで「モックバイ」まではローカルバスで行きました。
国境の町の印象は何もない田舎町でした。
現在は随分と変わっていると思いますが、「ラオカイ」もそうでしたが、ゲートを挟んだ向こう側はもう「カンボジア」なのかと、なんか拍子抜けする感じで、「これが国境なの?」という光景だったと思います。
国境を越えてすぐに「プノンペン」へ向かいましたが、ジープのような四輪駆動の車を一台チャーターして、5人すし詰め状態で乗り込みました。
当時は「カンボジア」側の道は舗装されていなかったので、凸凹でかなりの悪路でしたので、「プノンペン」までに掛かった正確な時間は分かりませんが、数時間は我慢のドライブになりました。
エアコンは無かったのでたまらなく蒸し暑いですし、上下に激しく揺れますし、誰一人喋る余裕がなく、ひたすら「プノンペン」まで忍耐の時間でした。
車はチャーターでしたので、交通費をシェアできるのが金銭面で助かりますし、それ以上に悪条件下では弱気になってしまうものですので、あのような時の「旅は道連れ…」は本当にありがたいことです。
HanaAkari