このブログは私がバックパッカーとして、1997年9月20日出国~1999年11月16日に帰国するまでの間に訪れた場所を、四半世紀後の私が思い返してみたら、一体何が出てくるのだろうか?という好奇心から古い記憶を辿り、出てきたものを書いてみることを試みたものです。
【崖崩れで通行止め】後ろ髪引かれ|旅の玉手箱 アクシデント編-13
【崖崩れで通行止め】
インド・ラダック地方〈ラマユル〉村の一家族の家に寝泊まりさせて頂いた様々な貴重な体験は、今でも色褪せることのない思い出です。
いつまでも居たい気持ちはありましたが、そんな訳にはいきません。
名残り惜しさは尽きないけれど〈レー〉に戻ることにしました。
〈ラマユル〉村は丘の斜面に張り付くようにあり、〈レー〉方面から来ると車道は低い位置から村の横を蛇行しながら〈ラマユル・ゴンパ〉のある高台に向かって上り、〈カシミール〉方面へと向かって抜けて行きます。
〈ラマユル〉のバスの停留場は村の下の車道にありました。
お世話になった家族の家は村の上の方にあり、「さよなら」を伝えてから村中の細い道を抜けてバスの停留場へ向かう間も、ずっと後ろ髪を引かれました。
偶然知り合った外国人の私を家に泊めてくれた家族との嬉しい体験の数々は、その別れ際にさすらう旅人の心にこれまでと違った色を滲ませたようでした。
持たせてもらった冷めたお弁当が温かかったです。
〈レー〉に向かうバスがやってきて、バスに乗り込みました。
そして〈ラダック〉の乾燥した岩と土の風景をぼんやりと眺めながらバスに揺れていると、道のりの半分くらい走った頃に、バスは道で停車したまま動かなくなりました。
エンジントラブルかなと思ったのですがどうも違うようで、この先の道で崖崩れが起きて通行出来ないということが分かりました。
何もない場所でのこの事態は困ったものでした。
その時になって気が付いたことは、そのバスに西洋人の女性が二人乗っていたことです。
外国人は私とその女性二人だけだったので、自ずと連帯感が生まれ、どうしようか相談することになりました。
お国はどこかと尋ねたら〈スロベニア〉でした。
東欧に位置するかつては〈ユーゴスラビア連邦〉に属していた国で、当時は独立してまだ浅い国だったので非常に珍しい国からの旅行者との出会いは新鮮でした。
同乗していたラダックの人たちは歩いて先に向かって行きましたから、これは着いて行くしかないという結論になりました。
乾いた荒野をひたすら三人の外国人は歩きました。
ラダック人はしばらく道を歩くと、舗装された道路からそれ出しました。
どうやらショートカットして行くようです。
〈ラダック〉の地形は高低差が多く傾斜も強いので、車道はそんな場所ではつづら折りで高低差を少しずつ進むように敷かれているので、道なりに進むとかなり遠回りになります。
歩きですと蛇行した所を一直線に突っ切って行けるのです。
地元の人々は日頃からそのようにしているみたいで、荒野には人が通ることによって出来た道がありました。
ラダック人の足取りは早く、着いて行くのが出来なくなりどんどん離されて行きましたが、足元には人が歩いて出来た道があったので少し安心でした。
スロベニア人らと一緒だったのも心強いことで、一人だと精神的にかなり辛かったと思います。
随分と歩きました。
最終的に車道に出て少し歩いた場所に小さな集落があって、そこでラダック人たちはバスを待っていました。
おそらく最初に乗ったバスはUターンが可能な場所で折返し、〈レー〉から来るバスがその集落で折り返し運転を行っていたのだと思います。
バスがいつ来るか誰にも分からないまま、お茶を飲みながら待っていると意外と早くやってきて逆に驚きましたが、それで終わりでは無かったのです。
乗ったバスはしばらく走ると渋滞してほとんど動かなくなりました。
崩落現場の復旧がまだ完全では無かったようで、あのような秘境のような場所で車の渋滞に遭うとは全くの予想外な出来事でした。
〈レー〉に到着した時はもう日が暮れていて、言うまでも無くクタクタでした。
自分事になぞらえて考えてみると、私の〈ラマユル〉への未練が通行止めだとしたら、まさかの目の前に起こったアクシデントによって、否応なしに前へ進むように仕向けられた、そんな感じがいたします。
HanaAkari