このブログは私がバックパッカーとして、1997年9月20日出国~1999年11月16日に帰国するまでの間に訪れた場所を、四半世紀後の私が思い返してみたら、一体何が出てくるのだろうか?という好奇心から古い記憶を辿り、出てきたものを書いてみることを試みたものです。
【ヒンドゥー教は墓が無い】輪廻観があるからでしょうか?|旅の玉手箱 インド雑学編-16
【ヒンドゥー教徒は墓が無い】
インドのヒンドゥー教徒には、お墓が存在しません。
遺体は火葬され、遺灰は川に流されます。
こと聖なる川の〈ガンジス川〉の遺灰になることは、人生最後の大きな願いなのだそうです。
聖地〈バラナシ〉には、残りの命が少なくなると、「死に場所」にするために遠方からも人がやってきて、最後の時を待つことがあると聞きました。
ヒンドゥー教徒は「輪廻転生」が考え方の根本にあり、「カースト」という制度もあるので、来世には今以上に上位の身分に生まれたいという思いがあるのだそうです。
〈ガンジス川〉に遺灰を流してもらいたいのには、今世を有終の美で飾りたいという強い思いがそうさせるのでしょうか…
日本ではお盆にはお墓参りに行って、先祖供養を願う風習がありますが、お墓が無いヒンドゥー教徒の方々は、どうやって故人を偲ぶのでしょう?
そもそも「輪廻転生」するのだから、「死」はそれほど悲しいことではないという達観なのでしょうか?
悲しむよりも、次を見据えているのかな?
世界には様々な価値観があり、それが正しいとか、間違っているとかと決めつけてかかるよりも、尊重して想像を膨らませると面白いものです。
私は、お墓が無いというヒンドゥー教徒の風習は、個人的には好きです。
現実的なことでも、人の世界が続く限り墓地は増え続けるのですから、土地の問題が起こってしまいますので、墓を持たないヒンドゥー教徒のやり方は、ずっと先を見据えた進んだ発想なのではないかと思います。
秋川雅史氏の歌、「千の風になって」を思い出しました。
「千の風になって」歌詞
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
………
「千の風になって」 日本腰詞:新井満
HanaAkari