- バンコク〈Bangkok〉
タイの首都。バックパッカーの聖地、拠点の大都市ですので何度も訪れました。
- チェンマイ〈Chiang mai〉
タイ北部にあるタイ第2の都市ですが、穏やかな落ち着いた場所でした。
- チェンライ〈Chiang rai〉
次の日にラオスに行くために1泊しました。近くのチェンコンからメコン川をボートで渡り、ラオスの町ファイサイへ行くためでした。
このブログは私がバックパッカーとして、1997年9月20日出国~1999年11月16日に帰国するまでの間に訪れた場所を、四半世紀後の私が思い返してみたら、一体何が出てくるのだろうか?という好奇心から古い記憶を辿り、出てきたものを書いてみることを試みたものです。
【バンコク】ドンムアン空港からカオサンへ|旅の玉手箱 タイ編-1
【バンコク】
カンボジアのシェムリアップから飛行機でタイ、バンコクの「ドンムアン空港」に短い飛行時間で到着しました。
今だとシェムリアップからタイだと陸路で行けますが、当時はカンボジアの国内情勢の問題があり、カンボジアからタイへは空路以外で移動することができませんでした。
私が旅行した時には、「スワンナプーム空港」はなかったので、バンコクといえば「ドンムアン空港」の一択でした。
空港からはまずバックパッカーが集まる「カオサンロード」まで行き、安宿を確保することが第一目標でした。
事前に知り合った先輩バックパッカーからの情報で、「ドンムアン空港」から「カオサンロード」までは電車と、小舟で行くと楽だよ教えてもらっていたので、その通りのやり方で「カオサンロード」へ向かったのは憶えていますが、はっきりとしたルートは分かりません。
空港前にあるのんびりとした鉄道の駅から電車に乗り、多分終着駅まで行った後、運河を縫うように庶民の足として利用されていた、小船のバスのような移動手段を使ったのですが、記憶は曖昧です。
運河沿いにある船の停留場は対岸にもあったりするので、小舟は運河をジグザグに結構なスピードで、乗客を乗せたり、降ろしたりしながら決まったルートを進んでいくようでした。
時折、水飛沫が掛かりましたが、暑い国なので水に濡れるのは問題ないのですが、運河の水がどう見ても綺麗とは思えなかったので、口に水が入るのだけは絶対に御免でした。
船頭に「カオサンロード」に行くことをしつこく伝えていたので、「カオサンロード」に一番近い停留場に着いた時には、「ここだよ」と降ろしてもらえました。
「カオサンロード」の少し北側辺りだったと思います。
初めて見る「カオサンロード」は外国人のバックパッカーで溢れていて活気があり、日本人も多くいましたが、西洋人の方が圧倒的に多くて、「ここは本当にアジアなのか?」と思ってしまうくらいの情景でした。
路地裏の目立たない安宿に部屋を借り、「自分は今、バックパッカーをしているんだな」という実感が湧いたのはこの時でした。
日本を出てから1カ月半くらい経過していた頃だったと思います。
その後、「バンコク」には旅の拠点として何度も訪れることになりますし、この時の旅行以外でも何度か「バンコク」は訪れていますので、時系列はバラバラの記憶ですが「バンコク」で印象に残った出来事を書いてみようと思います。
シェムリアップから先にバンコクに向かった「Dさん」と再会する
ベトナムのニャチャンで知り合ってから、カンボジアのアンコール・ワット観光まで一緒にしたDさんと「カオサンロード」で再会しました。
特に示し合わせていませんでしたが、バンコクでバックパッカーが集まる場所は「カオサンロード」と決まっていましたので、通りでばったりでしたが、当然のように再会しました。
Dさんとは少し腐れ縁があったのですが、「旅の玉手箱ベトナム編‐7 ニャチャン」で触れていますので、良かったらそちらも読んでみて下さい。
「バンコク」の魅力はアジアらしいローカルな一面と、都会の魅力とが上手く融合しているところだろうと思います。
貧乏旅行の楽しみ方もできれば、お金を出せば様々なエンターテインメントも楽しめます。
ローカルに疲れたら、ちょっといい所で食事をしたり、買い物をしたりすることが日本と変わらない感じで出来ますし、夜の遊びも充実しています。
バックパッカー旅行でも移動手段が確立されていて楽ですし、ツアーバスも冷房が効いていて時に寒すぎる時もありましたが、概ね快適でした。
ローカルバスなど、リーズナブルな庶民の乗り物も、混雑はあるものの、料金をぼったくられることもなかったので、変に気構える必要もなかったのも良かったです。
「バムルンラード病院」に1週間入院しました。
私はタイで「デング熱」に罹り、1週間入院生活を送りました。
その時に入院したのがバンコクにある「バムルンラード病院」でした。
当時、海外旅行保険を持っていれば、貧乏旅行者でも外国人が行くとしたら、「バムルンラード病院」か「バンコク・ジェネラル・ホスピタル」のどちらかでした。
大きくて最先端の医療があり安心して利用できる病院で、日本語が通じるとしたら2つのうちどちらかでしたので、よく考えなかったですが私は「バムルンラード病院」に行きました。
実は良く考えるとかといった状況ではなく、「デング熱」が発症してからすぐに病院に行かなかったので、病院に行く頃には意識朦朧としていてそれどころではなかったのです。
病院に行って検査を受けると「デング内出血熱」ですと告げられ、今すぐに入院するように言われました。
私の足に出来ていた赤い小さな点々を見せられ、「これが内出血です。あなたもう少し病院に来るのが遅かったら命を落としていたかもしれませんよ」と言われた時には、流石に驚きましたが、そうかもしれないと思える自覚も少しはあったのです。
人生において初めて「死」を意識した出来事でした。
「デング熱」の体験から少し広げたエッセイがありますので、良かったら「言葉の小槌17 デング熱」もよろしくお願いします。
韓国人の友人(悪友?)「Sさん」との思い出
この時の旅でインドで知り合うことになった韓国人のSさんとは、日本、韓国、タイでも何度も一緒に楽しんだ仲でした。
Sさんとの思い出でバンコクで強く印象に残っていることが、2つあります。
価値観の違いを日本人グループと韓国人グループで共有した機会がありました。
Sさんと「スコータイ」へ行った時でしたが、「スコータイ」にバスが到着した時間が早朝だったのです。
確か午前4時頃でした。
もちろん辺りは暗く多くの人々は寝静まっている時間だったので、少々困った時間に到着したもんだと思っていたら、Sさんは宿に行こうと言うので、私は驚いて「みんな寝ているこんな時間に行くなんて迷惑だろ」と答えたのでした。
安宿はホテルのように24時間フロントに受付がいるような仕組みではないので、当然スタッフも寝ているので、もし宿にチェックインしたいのならスタッフを叩き起こす必要があります。
その際に宿泊している旅行者にも迷惑が掛かるかもしれないし、今の時間は早すぎるので、なんとか時間稼ぎしてからにしようというのが私の意見でした。
Sさんの意見は、「疲れているし一刻も早く休みたい、客としてお金を払って泊まるのだから何が問題なんだ」ということでした。
これ程に考え方が違うのかと驚いたのですが、お互いの意見にお互いが納得できないので、折衷案で私は午前6時まで待つべきと主張した時間を5時に変更し、今すぐにと主張したSさんは5時まで1時間我慢することで、折り合いを付けたのです。
そんな時間でもヌードルスープの屋台が営業していたので、少しは時間稼ぎができたのは幸いでした。
この出来事についての意見を、カオサンロードで知り合った日本人数人と、韓国人数人が一つのグループになって、お酒の場を楽しんでいた際に聞いてみたのです。
物の見事に日本人は私と同じ考えで、韓国人はSさんと同じ考えでした。
どちらが正しいとか、間違っているとかではなく、これ程に価値観が違うのかということを知った出来事でした。
偽造パスポート作りを試みるSさんでしたが…
先に書いた出来事の後、Sさんはアメリカに行くのですが、これには一般的ではない特殊な事情が絡んでいました。
韓国では男性には兵役が義務になっていますので、兵役を終えていない韓国人男性は、1年パスポートしか発行してもらえず、自由に海外旅行をするには色々と制限があったようです。
Sさんは根っからの自由人で、かなり変わった韓国人でしたので、兵役は絶対に行きたくないという考えを持っていました。
しかしある年齢までには必ず行かないといけないので、Sさんに兵役を先延ばしにする時間は、ドンドン少なくなっていたのです。
同じ環境にいない私には、想像できないくらいSさんは悩んでいたのだろうと思います。
そしてその時に彼が出した結論が、韓国に戻らずにアメリカで牧師をしている親の所に逃げることでした。
しかし、パスポートの有効期限が1年でしたので、そのパスポートの有効期限が切れてしまうと、違法滞在になりますので、根本的には問題は解決していなかったのです。
なのでSさんはそのパスポートの有効期限が切れてしまう前に、タイに戻り「偽造パスポート」を作る作戦を、一か八かで決行するのでした。
その時はバンコクでSさんと再会するため、当時私が仲良くしていた韓国人の女性と、Sさんの彼女とスケジュールを合わせました。
私は気楽なものですが、Sさんは偽造パスポートを入手することが最大の課題でしたので、かなりストレスがあったと思います。
「偽造パスポート」作りなどどうしたらいいのか分かりませんでしたが、私もSさんに付き合って裏通りにいる悪そうなタイ人や、いかにも裏稼業をやっていそうな店なんかを当たって行きました。
正直言って私はかなり怖かったのですが、Sさんも流石に一人では不安でしょうから、どうなるかは分かりませんが、せめて同行はしようという気持ちでした。
その甲斐あってか「偽造パスポート」は作ることが出来たのですが、出来たパスポートの質が、素人目でも「バレルだろう」というレベルのものでした。
Sさんはあの期間に色んな事を悩み、考え続けていたのでしょう、最終的にSさんの出した結論は、「彼女と一緒に韓国に帰る」でした。
後日談で聞きましたが、違法行動の末に韓国に戻っているので、お咎めはあったようですが、思っていたよりも帰国は簡単だったようです。
その後もSさんとは韓国と日本でも会う機会がありましたが、Sさんは兵役は済まし、その時の彼女とは結婚しました。
HanaAkari